フープフラフープ

はらの趣味です

黄色い花を飾ろうよ

 

 

 

最近ちょっと生活ができるようになって自炊もし始めたのに、まただめになってしまった。寝たら明日になって仕事に行かなくちゃいけなくなるのが嫌で無駄に夜更かしをして、翌日眠くてしんどいみたいな毎日を繰り返している。その反動で、日曜日はだいたい寝て終わる。

いろんな嫌なことがあって、そこに将来への不安と無力感が合わさって、わたしは一体何がしたいんだろうという虚無感に襲われることが定期的にある。

 

映画を観るのは楽しい。けど楽しくないこともあるし、何も感じないこともある。感想をfilmarksに書いて、たまにラジオで話す。こうして、わたしが映画を観た、という記録が残る。記録だけが残る。

 

繰り返す日々でできたつまらない人生の中に、強みとか特徴とか、何かそういうのが少しでもなくちゃいけない気がして、追われるようにコンテンツを追う。楽しむための手段だったはずのものが消費という目的になってしまっている。費やして消えるってなんて悲しい言葉なんだろう。

 

 

今日はBUMP OF CHICKENの3年ぶりのライブに行く。母が熱心なファンなので、バンプがライブをすれば毎回必ずチケットを取って誘ってくれる。非常にありがたいのだけれど、自分の根底を形成した音楽を久しぶりに目の当たりにして心が揺れているところを母親に見られるのは恥ずかしくて居心地が悪くもある。

バンプに限らず最近行ったライブではだいたい泣いているので、わたしは今日も泣いてしまうのだろう。

 

わたしがバンプを聴き始めたのは涙のふるさとのエアーズのCMをやっていた頃で、わたしの中のBUMP OF CHICKENは今もあの頃のBUMP OF CHICKENだ。なんとなくCOSMONAUT以降とそれより前に境目があって、それがいいとか悪いとかではなく、わたしの中ではそうなっている。たぶん、その頃から部屋で泣きながら歌詞カードを読んで音楽を聴くということをしなくなったからだと思う。

高校生になったわたしは軽音部に入って、音楽に救いではなく楽しさを求めるようになった。部活のライブで楽しめるように、知らない曲がないように、音楽を「予習」するようになった。その結果好きなものの幅が広がったし、高校生のときに好きだった音楽は間違いなく今のわたしを形成しているけど、自分の「好き」に「消費」の側面がうまれたのはあの頃からだったんじゃないかと思う。

 

電車の中で、ライブに向けて新しい曲を聴いている。天秤が掲げた方を捨てるしかなかった藤原基央が「正しさは変わりゆくし、自分がそれに当てはまらなくてもいい」ってかんじの歌詞を書いている。そりゃ、取るもんな、歳。歳取ったらいろんなことがあるよね。たくさん経験してたくさん考えて、いろんな許しを得ていろんなものを許したんだろうな。

 

最近のBUMP OF CHICKENの曲たちに感じていることと一年前にシンエヴァに感じたことの性質はたぶん同じもので、思春期の自分に寄り添ってくれた存在がわたしを置いて先に行ってしまったような感覚なのだと思う。

昨年わたしは、orbital periodを出したBUMP OF CHICKENと同じ年齢になった。いろいろ思うところがあって改めてバンプの曲を聴くようになって、中学生のわたしには意味が理解できなくて好きじゃなかった曲を好きになったり、歌詞に思うことが変わっていたりして、自分も少しずつ変わっていってるのだと感じた。

新しく変わっていくひとやものを、無理に好きになろうとしたり受け入れようとしたりしなくていい。バンプエヴァに置いて行かれたのではなく、ただちょっと先で待っていてくれていただけだと思うから。これからもゆっくり後ろを歩いていけばいい。

わたしがもっと大人になって今聴いているこの曲の違った表情に気づくことができる日を楽しみにしているし、こうやって小さな生きる意味を少しずつ重ねていけたらいいな。

 

 

そして今、ライブが終わって電車でブログの続きを書いている。

25周年記念ライブなので、バンプの誕生から今までのアルバムをめくっているようなライブだった。隣の女の子がずっと号泣する横で、わたしもまぁまぁずっと泣いていた。

すごくすごく考え抜かれたセットリストだったと思う。俺たち4人でBUMP OF CHICKENなんだという意思を感じた。

誰かとライブの話がしたくて仕方がない。

 

これはネタバレにならないと思うので書いちゃうけど、藤原基央の「健やか穏やかにするといい」という言葉が非常に良かったので、帰ったら健やか穏やかにしようと思う。

 

健やか穏やかに。良い言葉だ。