フープフラフープ

はらの趣味です

できるだけわかりやすく返すね

住みたい家が見つかった。内見したらとても素敵な家で、ウキウキで申込書を書いて見積もりを出してもらったら、初期費用がとんでもない額になっていた。敷金1ヶ月、礼金2ヶ月、仲介手数料1ヶ月、そこに新築だからどうたらこうたらとよくわからない料金が上乗せされ、予想の1.5倍くらいの料金が提示され、「ちょっと、高すぎますね…」と恥をしのんでお断りした。代わりにみつけた家は、今の家を縮小してさらに古くしたようなところだったけれど、それでも今の家より家賃が数段高かった。引っ越したくない気持ちがちょっと強くなった。次に住む街はこんなに家賃が高いのに治安も悪いし、近くに映画館もないし、最寄りの映画館はショッピングモールの中にあるので家族向けの映画ばかりで、洋画は吹き替え優先だし、わたしのすきな映画をあまりやってくれない。都内へのアクセスは、まぁ、いいけど。どこでもドアがあればすべて解決するのにって、いつも思う。

不動産屋の帰り、ノートパソコンを探すためにショッピングモールをたずねた。朝からなにも食べておらず眠気でおかしくなりそうだったので、いつも人が並んでいる蕎麦屋の前のイスに座ってまどろんでいた。すぐに順番がきて、カウンター席に通される。カウンターの目の前は厨房で、コンロの炎だって間近に見えるくらい風通しのよい作りになっていた。そばをゆでる深いザルが、鍋の熱気でゆらゆら震えている。カウンターの中で、プログラミングされているかのようにてきぱきと焼いたりゆでたり混ぜたりする3人の無駄のない動きの流れを美しいと感じる。白い仕事着の半袖からのぞく筋肉質な腕をみて、料理って力仕事だもんなぁと思った。仕事だから、だけど、誰かがこうやって一生懸命作ってくれたおいしいものを食べられるのは、とてもよいことだ。客が店に入れば「いらっしゃいませ」店を出れば「ありがとうございます」と言うのが店のきまりなのだろうか。「しゃいっせー」「りがとございまーっ」ともはや誰のためなのかもわからない、届けるつもりもなく届きもしない言葉が調理のさなかに飛び交う。かつてコンビニではたらいていたときに、同じように届けるつもりのない機械的な挨拶をしていたことを思い出した。わたしのために作られたけんちんうどんを啜りながら、わたしのためではないその挨拶を耳の奥で反芻する。

 

友達が「刺さると思う」と言って吉本ばななの短編集「デッドエンドの思い出」をすすめてくれた。どの話もよかったけれど、特にいちばん最後の表題作が、思い出すだけで泣いてしまうくらいよかった。読み終わって友達に感想を送ったら「はらの話だと思った」と言われて、そう言われたらそんな気がしてきて読み返して、読み返したらわたしの話だった。物語の表層ばかり読み取ってしまうわたしにとって、表層ではなく深いところで自分と共鳴する物語をそうだと知覚できたことは貴重な体験だし、それは他者がいなければ起こりえなかったことだ。そう思えば、この本がより一層大切なものとなった。

「好きだと思う」「刺さると思う」「読んでほしい」というふうに何かを特定のだれかに薦めるのは、プレゼントと同じだと思う。たとえその作品を好きになれなくても作品に触れてわたしを思い起こしてくれたことが嬉しいし、好きになれたならそれはきっと宝物みたいに大切なものになるだろう。

「デッドエンドの思い出」は、苦しみや辛さとの向き合い方についての物語だ。わたしの抱えている苦しみの全てはきっとだれにもわかってはもらえない。似ている境遇のひとがいても、それは絶対に全く同じものではない。だけどたぶん、わからないところがあるからこそわたしたちが一緒にいる意味だってあるし、共感だけが救いになるわけではないのだと思う。ただそこにある心地よさや、共有した時間や、伝えた言葉や、背中をさすってくれたその手が、それがあったということが、あなたがこうだと思うわたしがいるということが、お守りになって生きる力をくれるのだと、そう思っている。