フープフラフープ

はらの趣味です

おやすみ

 

朝、職場の中を移動しながら、「今の仕事は面倒くさいからやりたくないみたいな消極的な嫌さじゃなくて仕事そのものが大きなストレスだからやりたくないんだなぁ」と思えて、せっかく売店にオムライスのおむすびがあったのに全然嬉しくなれなかった。嬉しくないけど一応買って、一応食べたらそんなにおいしくなかった。仕事はまぁまぁ順調に片付いて、定時に終わった。

仕事をしていて「信頼しています」という言葉に「すみません」と返してしまった。謙遜のすみませんではなく、謝罪のすみませんだった。わたしみたいな仕事を好きだと思ってない上に勤勉とは真逆で、能力もない中ギリギリやれている(やれていないときもある)かんじのひとが担当をしてしまってすみません。その信頼はほんとうに信頼なのか、わたしには自信がありません。それを言葉通りに受け取るとして、期待というものが持つ重さが、傲慢にも、わたしはとても苦手だ。誰に対しても、とても失礼な考え方だ。がっかりされることが怖いと、責任を取りたくないと、そういうことばかり考えている。

 

ひじがかゆい。かぶれて、乾燥して、かさぶたになっている。友達へのラインの返事が24時間以上あいてしまう。ゴミが捨てられない。家賃が払えない。

大型ショッピングモールで夕ご飯を食べるレストランを選んでいたときに、自然と「メニューを選ぶのに頭使いたくない」「食べる順番に頭使いたくない」「食べるときにあんまり頑張りたくない(口を大きくあけたり、箸を複雑に使うものはだめ)」を基準に夕飯のお店を選んだ。小説を持参していたため待ち時間で読もうと思っていたけれど、なんだかやる気がしなくて、放置してぽちぽちレベルだけ上げるスライムのスマホゲームをぼーっと眺めていた。ご飯はおいしいもののはずなのに、あんまりおいしくなかった。ぼけっとスマホをみながら、電池がなくなっちゃうけど、なんだかゲームをやめられないな、と思ったところで、これは心に元気のない証拠だ!と思った。そう思ったら、ここ最近あった生活が崩れていくかんじが、なんだか辻褄の合うかんじがして、ほっとした。

 

雪が降ると言われていたのに、大丈夫でしょと高を括って車で遠くのショッピングモールに赴いた。ちょうど父親と連絡をとっていたのでそのことを伝えたら、「危ないから帰った方がいいよ、雪が一気に積もることもあるから」と返事が来た。既にモールに着いていたので、ご飯を食べて、食べたあと映画館のところに行って、開場時間までどうしようか迷った挙句に、「食後で眠くて運転したくない」「今日映画をみようと思い立ったのは今日みなきゃいけないものだからだ、たぶん。だからたぶん雪は降らない」とかいろいろ考えているうちにチケットを買っていて、「あつい胸さわぎ」という映画を観てきた。

 

いろんな人がでてきて、それぞれがなにかを抱えていたり、もしくはなにかが欠けて(欠けようとしていることに悩んで)いたりする。それは捨てたり埋めたりすることはできないもので、だけどもみんな、たしかにだれかを無意識に或いは意識的に愛していて、てのひらを介してその愛が体に残る。誰かが「どうにかしたい」と思っている部分のそのままを肯定する映画だった。わたしだけが幸せではないのだと、そういう疎外感を抱えた記憶と、てのひらから貰った愛の感覚が、エンドロールといっしょに流れていく。

目当ての半分だった前田敦子がやっぱりとてもよかった。「町田くんの世界」「くれなずめ」「もっと超越した所へ。」「そばかす」「そして僕は途方に暮れる」と、わたしが観た映画に出てくる前田敦子はどうしてこうも最高に魅力的なんだろう。その中でもベスト敦子と言ってもいいくらい、今日のあっちゃんも素敵だった。素敵な前田敦子のでてくる作品があれば、おしえてください…

 

映画が終わって、スマホのバッテリーの残りを確認したら1%だった。エンドロールの間に少しだけ思い浮かべた人から1年ぶりにラインがきて、すごくびっくりした。すぐに返事をして、車に乗って、カーステレオをつけたらBUMP OF CHICKENの「orbital period」が流れた。雪は降っていなかったし、積もってもいなかった。なにかの予感に思い立って遠くまで車を走らせて、映画をみたらそれは自分にとってとくべつなもので、降らなかった雪と、かつてとくべつだった、今はとくべつじゃない誰かからきた言葉の羅列に、スマホの上で共有した少しの時間に、わたしからのとくべつと少しの愛をこめて。