フープフラフープ

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また会おうね

昼までに急いで仕事を終わらせ同僚に引き継ぎを行い帰宅。車で1時間弱かけて映画館に向かい、リバイバル上映されている「ビフォア・サンライズ」を観る。

(ネタバレとかする)

一日の中で明け方が一番好きだ。最近は起きたまま朝を迎えることもほとんどなくなって、明け方に出歩くのなんて旅行のときくらいだ。それでも薄明るい灰色の景色の中を歩いていると、ふたりで朝日を待ったベランダや、友達と歩いた北千住のロータリーや、間近に迫る明日が見えないようにひとりで潜った布団の中のことを思い出さずにはいられない。

 

「ビフォア・サンライズ」は2021年にアマプラのレンタルで観た以来の二度目の鑑賞だったが、おおまかなあらすじ以外ほとんど内容を忘れていたので新鮮だった。そしてとても素晴らしい映画体験だった。

タブレットの小さな画面では気づくことのできなかった表情の動きや目線、仕草。

終盤、街を歩く主人公たちを目で追いながら会話する男性の姿に釘付けになる。

わたしが知る多くの映像作品では、画面の中のモブキャラクターは背景の一部であり、主人公の挙動とは無関係に生活を営んでいる。中には主人公と接するモブキャラクターもいるが、その役には「男A」や「居酒屋の女」などと役名が与えられていることが多い。

しかし、この映画では役名すらなく背景として機能する狭義の「モブ」キャラクターが、ただ歩いているだけの主人公たちを目で追い、そしておそらく主人公たちについての会話をしている。それを映すことで、複数のレイヤーとして分離された背景と主題がひとつのレイヤーに結合されているように感じられてとてもよかった。これは確かに存在するひとつの世界で起きている出来事で、主人公たちにとってモブキャラクターが「街の声」であると同時に、モブキャラクターにとっては主人公たちが「街の声」なのだ。街に生きている。街が生きている。

エンドロール前の「生きた街」の描写もとてもよかった。かつてふたりがいた、今はふたりがいない場所。日が昇ると街は豊かに表情を変える。わたしもそれを観測したいと強く思う。こんなにも旅行がしたくなる映画は久しぶりだった。いつかウィーンであてもなく街歩きをしてみたい。

 

映画館で集中して観たからこそ、この映画が「視線」を大切にしていることにも気づけた。

冒頭、一瞬の視認がまるでスイッチであったかのように物語が始動する。レコード屋の試聴室での乱反射のような視線の応酬に息をするのを忘れそうになる。相手を見つめる嬉しそうな目線に、合いそうになる目を慌てて逸らすカッコ悪さに、その空間がもたらすおかしさに、懐古と羨望と親しみを覚えながら。そこから行き着く先にある「あなたをしっかりと覚えておきたい」というやりとりの中でぴったりと合う視線に胸が熱くなった。

 

「わかり合えなくてもいい、わかり合おうとすることが魔法」ってなんて素敵な言葉なんだ。あなたのことが知りたいと、何度も質問を重ね視線を重ね唇までも重ね合わせる。そうやって繰り返されるふたりの魔法を目の当たりにすると、たった一夜であそこまで強く惹かれ合うことにも納得せざるを得なくなる。彼らの魔法を信じたいし、忘れたくないと感じる。

 

初めてこの映画を観た時から、実際に続編映画が公開された9年後まで続きをとっておこうと決めていた。初見が2021年だったので、「ビフォア・サンセット」は2030年までお預けになる。6年後のわたしはどんな人間になっているのだろうか。まだ生きているのかな。

どうかその頃また映画館でリバイバル上映が行われますように。