フープフラフープ

はらの趣味です

タイトルが決まらないまま20分が過ぎた。

ブログってどうやって書くんだっけ。ちょっと忙しくなってちゃんとした時間が取れなくなって、半年の間に書きかけの下書きが16もあるのに、どれも推敲されないまま眠っている。君がかつて住んでいた街へ向かう電車の中で、空腹を紛らわすようにこれを書き始めた。このまま乗り換えの駅で降りるのを忘れて、東京のどこかで降りて、みつけたホテルに泊まって昼までゆっくり眠りたい。

 

やっぱり、久しぶりに書くとちょっと恥ずかしいや、ブログ。

ほんとうは、たくさん溜まったラインを開くのが億劫で、そこから逃げるためにブログを書いている。いつだって必要なことは後回しにしてしまう。

 

ディズニーランド帰りの耳をつけたままの人が、真顔のままスマホを眺めている。電車の中の人は半分くらいがマスクをしていない。斜め前の席が開いたので座ると、反対側にもうひとりミニーマウスの耳の人がいた。お誕生日シールをつけていたので、おめでとうと心の中で伝える。

 

今日は映画館で「aftersun/アフターサン」という映画を観た。ネタバレも含めて感想を書きたい。

この映画は、離れて暮らす30歳の父と11歳の娘が夏の間ふたりで海にバカンスへ行く数日間を描いたものだった。あらすじと雰囲気で、きっとわたしは退屈してしまうことがわかっていたけれど、友達やフォロワーさんたちみんなが「いい映画だった」と言っていたので、観にいくことにした。それがわたしにとっていい映画じゃなかったとしても、観た後に自分が何を思うのかを知りたかった。

映画を観ている間の多くの時間わたしの頭の中を占めていたのは、映画とあまり関係のない事柄だった。数日前に発してしまった失言のこと、大学時代の秋に行ったグランピングのこと、屋外の飲み会で席を外した時に遠くから聞こえてくるみんなの声のこと、久しぶりに連絡するあの人になんてラインを送ろうか、なんてこと。網膜にうつる映像が脳みその考える場所を通らずに、どこか違う道を通って直接海馬の端に到達しているような、そんな感覚で映画を観る。だれかが言葉を発する。字幕が出る。字幕を読む。映像を眺める。

こんな書き方だとまともに映画を観ていなかったように捉えられるかもしれないけど、いろんなことを考えながらもちゃんと映像は堪能していた。画面の切り取り方、映像の質感、聞こえてくる音の取捨選択、重なり合う場面と手、夏の海の広くて眩しい空、揺れるみなも、全てがとても美しくて懐かしくて楽しかった。最低限の言葉と雄弁な映像でものごとをあらわす作品を観ると、今日映画館に足を運んで良かったと心から思えてくる。

後半、ポラロイドカメラで写真を撮ってもらうシーンがあった。写真を撮った後、机に置かれた写真だけがうつされ、ふたりの話す声が聞こえる。じょじょに浮かび上がる写真が、過ぎゆく時間のゆるやかさを実感させる。ふたりがどんな会話をしていたのか全く思い出せないけど、そのシーンで涙が出たことだけは覚えている。映画を観ているとよくある泣かされて出る涙ではなくて、わけがわからないまま勝手に出てくる言語化できない涙だった。その瞬間、過ぎていったひとつひとつのシーン、映像がとても愛おしく思えて、この映画のことが大好きになった。

映画の最中、多くの場面でわたしが感じたのは疎外感だった。みんなと一緒にプールに飛び込んだ後、楽しむみんなを水の中から眺めてひとりプールから上がる場面。大人たちが水球に興じる真ん中で、球に触れないまま大人を眺める場面。優しいお兄さんお姉さんの飲み会から少し離れた場所で飲む清涼飲料水。「みんな」がいる場所で、なんとなく「みんな」の一部になれなくて、気づかれないように少し距離をとるときの疎外感。だからこそ、踊らないと断言した娘の手を無理矢理とって一緒にダンスを踊るシーンがとても好きだった。それは「みんな」との同化の強制では決してなくて、「みんな」の一部じゃなくたってみんなと一緒に踊ることはできるし、それが嫌ならふたりで踊ればいいし、「へんなの」って言われながら部屋でひとりで踊るのも楽しいってこと。

映画の折々で挟まる印象的な場面。暗闇とストロボの中で必死に踊る父親は、よく見えなかったけれど、楽しそうでもあったし苦しそうでもあった。まわりにはいろんな人がいた。きっとそこは父親の人生であり、時には楽しい場所でもあり、おおむね地獄でもあったのだろう。でもその地獄は、周りの人からはよく見えないし、よくわからない。

わたしもわたしの地獄を、きっと人からは見えない地獄を、ひとりで、時には誰かと楽しく踊りながら、あの夏の思い出を握りしめて、生きられるところまででいいから生きようと思った。