フープフラフープ

はらの趣味です

ショートヘアと伏線回収

 

 

髪を切った。

胸の辺りまで伸びて傷みきった茶色いロングヘアが、口の高さくらいまでの黒いショートヘアになった。

 

実のところ、ショートにすると散々宣言しておきながら本当にショートにするのか迷っていたのだが、さよならくちびるという映画を観て小松菜奈のマッシュヘアが可愛すぎて絶対にショートにしようと決心したのが昨日。

初めて行く美容院で、美容師さんに全てお任せしてあとはひたすら美容院のiPadに入っているブルーピリオドを読んでいた。

 

最初にばっさり切った髪の量が衝撃的で、写真を撮らせてもらった。

 

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画像だと全く伝わらないけれど、けっこうな量とけっこうな長さ(20cmくらい)の髪で、美容師さんに「もつ鍋のニラみたい」と言われた。

 

美容師さんは寡黙な人で愛想も全然良くなかったけど、美容院で雑談をするのが苦手なわたしにとっては非常に気が楽で、3時間が全く苦ではなかった。

 

ブルーピリオドは3巻まで読むことができた。

昔読んだところに追いつくか追いつかないかくらいのところまでなのでなんとなく内容は覚えていたけれど、時間が経って読むとまた違った面白さがある。

それは考え方の面でもそうだし、知識の伏線回収という面でもそうだ。

 

先月、友人に教わって「世界堂」という新宿の画材屋さんに行く機会があった。

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その友人に「世界堂あったよ」とラインするために撮った写真。

 

また、先週末に訪れたもしも東京展では、「青猫」という詩をテーマにした松本大洋の作品があった。

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そのどちらもブルーピリオドの一巻にさりげなく出てきて、あーこれ!これじゃん!とちょっとテンションが上がった。

わたしはこれを人生の伏線回収と呼んでいる。

 

わたしにとって知識や記憶を得ることは、人生において伏線を敷くことだと思っている。

 

例えば、旅行に行った景色の記憶を映画でみた時。

例えば、昔読んだ小説の一節が歌詞に引用されていた時。

例えば、なんとなく好きだと思っていた味が名前だけ知っていた食材の風味だと知った時。

 

あーこれ!これじゃん!これだったのね!と思う瞬間の気持ちよさが大好きだ。

 

いろいろな作品に触れたり新しく知識を増やそうとすることは簡単なことではない。

ついつい同じものばかり摂取してしまうし、上っ面だけ撫でるようにものごとを消費してしまう。非常にもったいないことをしていたと思う。

 

いつかの小さな感動のために、今後もちまちま伏線を敷き続けていきたい。

 

そうこうしているうちにヘアカットが終了して、ずいぶん印象の変わった自分が鏡の中にいた。

 

一年半前に行ったパーソナルカラー診断のひとに、ショートヘアは似合わないと言われた。

過去の写真を見ても、ショートよりロングの時の方が明らかに顔面の調子がよかった。

 

だけど今、わたしはショートヘアの自分がロングヘアの自分よりも好きだし、似合わないと思われてもこのままでいいと思えている。

 

そんなに好きじゃなかったBase Ball Bearの Short Hairという曲をなんとなく聴きながら帰ったら、いつのまにか歌詞の捉え方が変わっていることに気づいて、この曲が好きになった。

 

うなじの剃った毛がちくちくしてつい触ってしまう。

髪を切ってよかったな。

 

 

明日も仕事がんばろう。

おやすみなさい。

 

Short Hair

Short Hair

 

 

 

「もしも東京」展の感想

 

清澄白河という街に初めて行った。

東京都現代美術館に初めて行った。

雨が降っていた。

雨の美術館は、雨音と水の波紋がとても綺麗だった。

靴が浸水するのが嫌で長靴を履いて行ったのだけど、連れて行ってくれた友人が買ったばかりのスニーカーを履いてきたのでわたしもお気に入りのスニーカーを履いてくればよかったと少しだけ後悔したのだった。

 

youtu.be

「もしも東京」展は素晴らしい展示だった。

心を動される瞬間は歳を取るにつれて得難くなるもので、だからこそそんな瞬間に出会えた時の感動は大きい。

感動を言語化するのはとても難しいことだが、自分の言葉であらわすということをできるようになりたいので頑張って書き起こしてみる。

 

 

あったはずのもしもの東京を20名の漫画家が表現するという企画展。

一番期待していた作家というのもあるが、最も感動したのはやはり浅野いにおの作品だった。

 

描かれているのはあったかもしれない東京というよりはこれからおこりうる未来のかたちのひとつで、ものごとのオンライン化が急速に進み、仮想現実だとか拡張現実だとかそういったものが夢じゃなくなってきている今だからこそ強く感情移入ができる作品だった。

オンラインでの生活が主であるあの世界での現実は酷く荒廃したものなのだろうということはなんとなく予想ができても、実際に浅野いにおが描く現実の姿を見せられた時はすごくショックだった。

新種のウイルスが世界的に流行していてたいへんだ、ということを頭ではわかっていてもどこか他人事のような気がしていて、いつか終息して日常が戻ってくるんじゃないかなんて思っていて、なんならできないことが少し増えたくらいで既に日常に戻ってきているような感覚で過ごしたりもしていたから。

汚れきった空気の中ヘッドギアとマスクをつけて恋人を待つ姿があまりにも残酷で、わたしたちの未来がこうなってしまう可能性なんていくらでもあるのだなと思ったら怖くて、何も言えなくなってしまった。

後述するがこの後羽田空港に行き、がらんどうの空港を見てこの気持ちにとどめを刺されることになる。「ここにいる人たちは生き残った人たちで、わたしたちしか生きている人はいないんだよ」なんて軽口を叩いてみたりしたけれど、頭の中はあの見開きのページでいっぱいだった。

 

AIとの恋というありがちといえばありがちな題材も、こういった舞台設定と混ぜ合うことでただの虚しい恋物語では終わらせないところが凄い。

未知のウイルスがさらに進化を続け、人口が減り、他人と会うことが今以上に難しくなった世界では、オンラインの世界ですら生きた人間と出会うことが難しくなっているのかもしれない。

人口知能との恋愛が当たり前にコンテンツのひとつとなった世界で、はたしてその恋愛は本物なのか。あなたに会いたいと言った彼らの気持ちは偽物なのか。浮かべた涙はどこへ流れ着くのか。

クローバーが消えたのは告白を受けた直後だった。「誰かから告白される」ということが実績解除のひとつだったのだろうか。だとしたら、最後に持っていたクローバーは何の象徴だったのだろう。あなたと現実の世界でも付き合えたらいいのにという願いだと解釈したが、本当のことはわたしにはよくわからない。

 

展示を見た後に、浅野いにおが描いたもうひとつの作品のことを友人から教えてもらった。ダメージを受けるので帰宅後に読むようにと仰せつかったため、その場では読まずにとっておいて先程読了した。

コロナ禍が本格化する前に描かれた漫画で、当時の当たり前を描いていたはずがたった数ヶ月でこんな世の中になってしまったため「あったかもしれない」東京が図らずも描かれたことになってしまった。皮肉だ。

 

この世界では何者にもなれない人間が大半であるということを知るまでは、わたしも世界の主人公だった。

わたしには何もないのだと気付いたのは何歳の頃だっただろうか。自分を支えてきたはずのものが崩れ落ちて、そこから先に進むのが怖くて後ろを向いて座り込んでいた。

諦めきれないけど現実も見たくないこの話の主人公とは違って、わたしはあの時から全て諦めてしまっていた。

だけれども、齢28を目前にして最近やっとわかったことがある。作品は消費者のためだけのものではないが、消費者がいなければ成り立たないのも事実なのだ。誰かが作ったものをしっかり噛み砕いて共有して経験にしていくことが、わたしたち作れない人間が作品と向き合う方法なのだと思う。

 

「彼女と星の椅子」というBUMP OF CHICKENの曲がある。何者かになりたい女の子の歌で、わたしには関係のない歌だと思っていた。

その女の子は主人公になりたいのになれなくて、ほんとうは歌いたいのに自らタバコを咥えているからそれができない。けれど歌の最後にはタバコは出てこないし、ちゃっかり歌なんか歌っている。先程の漫画と同じで、彼女がそうなった過程は歌詞には出てこない。きっとそれを見つけるのは私たちじゃないといけないからだ。

そう思えた今日を大切にしながら、わたしも椅子に座ってタバコに火をつけた。

タバコの代わりに歌を歌える日を夢見て。

彼女と星の椅子

彼女と星の椅子

 

 

 

もうひとつ特によかった作品は岩本ナオの作品で、東京を舞台とした神様のファンタジー漫画だった。現実と非現実が混ざった作品は大好きだ。

東京観光という名目で浜松町から羽田空港までモノレールに乗って移動する描写が非常によくて(よいとしか表現できないのが歯痒い)これわたしもやりたいなって思ってたら、この後モノレール乗っちゃうのありでは?と友人が言ってきたのでこいつは最高かと思った。

そんなふざけた友人と浜松町から羽田空港まで各駅のモノレールに乗って、一番前の車両の一番前の席から東京の眺めを楽しんだ。

 

羽田空港は死んでいた。

お店はほとんどが閉まっていたし、国際線のカウンターはもぬけの殻で、聞こえるはずの音は一切しなかった。

ほんとうに世界が滅びかけているような気がして怖かった。

でもそんな空港をうろうろするのは廃墟探索に似た楽しさもあって、この景色が今しか見られないであろうことを祈りながら今日を記憶に落とし込むのであった。

 

 

 

そういえば、東京をテーマにした曲はなにがよいか、という問いには即座に答えることができなかった。

わたしの本当の答えはBUMP OF CHICKENの東京讃歌なのだと思う。

東京讃歌の歌詞の話もしたいけど、長くなっちゃいそうだしもうすごく眠いから、今日は寝ることにする。

明日からまた月曜日が来るけれど、頑張ろうね。

おやすみなさい。良い夢を。

 

 

最強の世界できちゃってるわな

 

 

 

映像研には手を出すな!についに手を出した。

もともと絵柄と雰囲気みて絶対好きだなって思ってたし監督が四畳半の湯浅監督だしでずっと観たかったんだけど機会なくて逃してたところに、昨日フジテレビオンデマンドにあることに気づいて観るっきゃねえとなった次第。

 

 

オープニングが良いアニメはその時点で良作である。

もう音楽ありきの映像でなんなら使い回しばっかりなのに、そのチープさが逆におしゃれというずるさ。この映像だけでわたしがこのアニメを好きになることがもうわかる。安っぽいプリズム背景たまんねえ。色使いかわええ。

てかヒップホップってこんなにかっこよかったんだ。今まで触れたことなかったけどめちゃくちゃにかっこいいじゃん。ラップってこんなに気持ちがいいんだ。

歌詞もすごくいいなぁアニメの内容に沿った歌詞って大好き。これぞオープニング。めんどくささこそが物作りの醍醐味。

あと、サビの前で手拍子ふたつ入る曲、大好物です。

 

 

 

というわけで開始数分ではらの好きアニメの棚に並べられてしまった映像研、中身も非常に素晴らしかった。まだ1話しか見ていない。見ていないけどそのたった1話にいたく感動してこれを書いている。こんな感覚は久しぶりだ。

 

 

簡単に紹介すると、冒険が大好きで自分の考えた世界をアニメーションとして作り上げたい浅草とその親友らしき金の亡者の金森が、アニメが大好きな読者モデル水崎とガールミーツガールして一緒にアニメーションを作りましょうというお話。

 

そもそも世界観が、ああこの作者は冒険と設定作りが大好きなんだなと思えるもので、水上のダンジョンみたいな学校なんてワクワクするしかないじゃないの。その景色をわたしもこの目で見てみたい。現実ではそれが叶わないから、こうしてアニメを見てしまうんだろうな。

 

なにより最高だったのはBパートだ。

水崎の汚れた服を洗うために訪れたランドリー、渡り廊下から温泉、低い入り口、古い洗濯機、2階で飲んだいちご牛乳、畳の休憩室、ブラウン管テレビ、テープで貼り付けられた整理整頓の注意書き、横に積まれた雑誌、コインランドリィという看板、開けるのにガラガラって音がしそうな窓、もう全部が大好き。

そして、大好きなものを共有する2人。

2人が本当にアニメーションを愛しているのが伝わってくる。ひとりじゃできなかったことがふたりになることで少しずつ完成に近づいていく感動。今まで考えたこともなかった新たな視点を知る驚き。

素晴らしかったのが、重ね合わせた絵に描かれたメカから始まる妄想。冒険の世界に行きたいっていう夢を自分の空想の世界で叶えるという、わたしたちがアニメを見て擬似的に体験しているワクワクを、彼女たちは自力で作り上げている。トンボ型のメカに乗り込む姿は本当に活き活きとしていて、彼女たちだって作り上げられたフィクションの登場人物なのに、彼女たちがすごくすごく羨ましかった。

彼女たちが体験した感動には到底及ばないんだろうけど、そんな感動とワクワクを見ているだけで疑似体験できたBパートはアニメーションという文化の本質だったし、それだけで価値の高い映像体験だった。

1話だけでいいから、映画館で、大きなスクリーンで、あの世界に入り浸ってみたいと思った。

 

 

絵が描ける人間が羨ましい。

何かをゼロから生み出せる人間が羨ましい。

 

わたしも絵を描くのがすごく好きだった。

幼い頃は漫画家になりたかった。小学5年生で初めて漫画を描いて、才能がないことに気づいていつしか描くのを辞めてしまった。努力が足りなかったのか、才能が皆無だったのか。飽きっぽいわたしは恐らくそのどっちもだったのだろう。

 

文章を書くのも好きだ。ただ何かをゼロから作り出すのはどうも苦手で、話を考えるなんて無理無理の無理だった。どうしても何かのパクリになってしまう。だからこうして生産性のないことをつらつら書き連ねるのが一番性に合っている。

 

ありがたいことに、大学時代に作詞を頼まれたことがあった。作曲でお金を稼いでいる友人にはらちゃんの世界観の歌詞が欲しいと言われてすごく嬉しかった。はじめから諦めて挑戦しようともせずに断ってしまったことを今でも少し後悔している。せっかく肯定してもらえた世界観というものが、よく見たら空っぽでどこにでもあるものだったってわかってしまうのが怖かった。

 

物語を、大好きな最強の世界を自分で生み出せる人間は最強だ。心の中だけにあった世界が現実に形を持って現れるなんて、魔法かドラえもんの道具みたいなことを平然とやってのける人間が同じ人間だなんて信じられない。わたしもそうなりたかった。思い描く世界を絵の中に閉じ込めてみたかった。心の底を物語に映してみたかった。懐かしい思い出を音楽の裏に隠してみたかった。

 

そんなわたしの夢を疑似的に叶えてくれるであろうこのアニメをこれからあと11話ぶんも体験できるなんて、楽しみすぎてちょっとドキドキしてきた。

 

 

部屋のテレビがいつか大きくなったら、電気を消してポップコーンを片手にまた映像研の1話を観よう。忘れてしまった夢を思い出そう。

 

 

 

一緒にここから離れよう

 

ここ数ヶ月で急激に仲良くなったひとがふたりいる。好きなものがたくさんあって、好きなものをちゃんと摂取しているひとたちだった。

 

今日、その片方がSNSにアップしていた「あのこは貴族」という映画の感想を読んで、すごいなあと思ってこれを書いている。ちょっとした文章なのにそのひとが生きて重ねてきた教養だとか経験が詰まっていて、羨ましかった。

 

たまになんでそんなことで悩むんだろうってことでゴリゴリに悩むんだけど、先月はふたりと比べて自分の好きがなんて軽薄で浅はかなんだろうということでゴリゴリに悩んだ。

本当にそのコンテンツがすきで摂取しているわけではなくて、摂取したコンテンツで自分を保っているような気がしてしまって。

 

今まで、自分と自分の好きなものに自信がなくて、好きなものを好きだと思ってもひとと深く共有してこなかったから、好きなものの話をするのがすごく下手だ。

なにがどう好きなのかも説明できないし、感じたことも適切な文章に残せない。

好きなのに知らないこと、知らなくていいと思っていることが多すぎる。

今まで意識したことがなかったその事実がわかってしまって、好きのスタンプラリーだけしてきたんじゃないかって、この6年間はなんだったんだろうって思ってしまった。

 

そもそも、趣味を多く持とうと思ったきっかけが他人に依存しなくても生きていけるようにするためだった。

好きなものが増えて生きるのが楽しかったし辛さも紛れた。

そうやって体の表面にだけいろいろなコンテンツを貼りつけて、わたしは中身のある人間ですよ。ひとりでも楽しく生きていけますよ。って自分の形を保っていたんだと思う。

6年間で得たはずだったたくさんの好きが全部ぺらぺら剥がれていくような気がして、悲しくなっちゃってた。

 

だけど2人に会えたのはその空っぽの好きがたくさんあったからだし、音楽を聴いて映画を観て流した涙はちゃんとしょっぱかったし、歌詞に支えられて仕事も頑張れたし、写真に残した横顔は大切な思い出だし、映画館で映画が始まる瞬間の違う世界に行くような感覚だって確かに本当のことだった。

 

 

今までの長い長い27年間で好きを丁寧に処理してこなかったことは本当に勿体ないけど、これからそのアップデートをしていったらいいんだと思って、昔好きだったものを少しずつ改めて摂取している。

そしたら全然違うものに見えてきて、もっと好きになったりして、この歳になって新しい好きに出会えていることがすごく楽しい。

 

そうやって自分と向き合うだけじゃなくて、ふたりから教えてもらった新しい世界もたくさん広がっていて、ふたりといつまで一緒にいられるかはわからないけれど、ふたりと出会えたことはわたしの人生のちょっとした転機だと、こっそりすごく感謝している。