フープフラフープ

はらの趣味です

終わりかけの夏とわたしはそっくりなのである

 

 

急行で10駅、そこから快速特急に乗り換えて10駅、さらにモノレールで2駅。最寄りから目的地までの距離を言葉にするとその遠さが具体性を帯びる。ガラガラの電車の端っこの席で寝たり起きたりして、たまに伴走する車や流れる風景を眺める。Spotifyクロスフェード機能は微睡みと相性が良い。

 

あなたは話を聞いてくれる人だから、わたしが話せば話すだけ丁寧に耳を傾けてくれる。悩みを打ち明けてもわたしの痛みに全く寄り添ってくれないくせに、わたしに向き合い嘘や忌憚のない意見をくれるところが好きだ。

 

そんな彼女と何を話したらいいのか急にわからなくなってしまった。今までどうやって一緒に過ごしていたんだろう。無言が心地よかった気もするし、ずっとしょうもない話で笑っていた気もする。一緒にいる時間は間違いなく楽しくて大好きなのに、そこにいた自分の在り方を忘れてしまった。相槌のタイミングすらもわからなくなって、焦りを伴う無言がうまれた。どうしてこうなっちゃったのか自分でもわからなくて、テストの空白を当てずっぽうの回答で埋めるように言葉を繋げた。

 

出来事が、ないのかもしれないと思った。あれが楽しかった、これにびっくりした、誰を好きになった、彼に傷つけられた、そういう出来事がない。あっても、物語にならない。面白く話せる苛立ちすらもない。ただ繰り返される地味で不安で嫌いな毎日を縫うように映画と本と馴染みの音楽と一緒にいる。そうやってわたしの周りにある好きなものの話も、やっぱりうまくできない。ほんとうは何も好きじゃないのかもしれない。何にも興味がないのかもしれない。

今年になってから、わたしはこんなことばかり嘆いているね。

 

将来家を建てる時には地下室に防音のシアタールームを作ると決めていて、その話をしたら彼女は笑いながら「近くに住んで週1で遊びにいこ」と言った。それがほんとうになったらどんなに幸せなことだろうかと思った。

そんな未来は十中八九起こり得ないことをわたしは知っていて、会うたびにうっすらと見える彼女の結婚の気配に怯えている。結婚を機に疎遠になるような相手ではないこともわかっているけれど、それでもあなたに恋人ができたとき、あなたが誘う一番がわたしではなくなったことが悲しかった。それが社会の中であるべき姿なのはわかっていても、かつて約束した「いっしょの老人ホームに入って隣の部屋で暮らそうね」がほんとうになってほしいと願ってしまう。だけどわたしは恋が(比較するものではないという前提があったとしても)友情を凌ぐ瞬間も理解できてしまうから、それを咎めることはできない。大切なものが多くて悪いことなんてないはずなのだ。

 

山内マリコの「あたしたちよくやってる」という書籍の「さみしくなったら名前を呼んで」というエッセイに同じ内容の話があり、こんなにもタイミングよくこの作品と出会えたことに驚く。

 

女の子同士、友だち同士は、男女のように結婚して、一緒には生きてはいけない。その時期が来れば友だちはどこかへ退場し、いちばん親密な他人のポジションは、男性に取って代わられる運命にある。女性は大人になると、それを望むようになる。

 

 

帰り道はビル街を駅まで歩く。

「あれ仕事かな」「暖色系の灯りだから自宅じゃない」「そっかぁ」「フロアがぜんぶ同じような色の光なら、それは会社だなって思う」「じゃあこっちは仕事の光だね」「うん」「こういうところで働いて、こういう道を歩いて帰りたい」「そうかぁ」

行きのモノレールからビルの中の働く人たちをぼーっと眺めていたことを思い出していた。ひとつひとつの窓の中にいのちがいて、そのいのちがそれぞれ意思を持って別のことをしているということを、ビルの灯りを見るたびに不思議に思ってしまう。

 

ビルの中で働く誰かのように、明日も起きて、服を着て、仕事に向かい、パソコンを眺めて、キーボードを叩いて、人と話す。そして帰宅したら、マンションの暖色の灯の中で暮らす誰かのように夕ごはんを食べて、片付けて、洗濯をして、だらけて、寝る。わたしの生活も、だれかにとってはビルの灯のひとつでしかないのだ。そう思えば、意味のない生活に意味を見いださなければならないようなこの焦燥感も、少しは和らいでくれるのかもしれない。