フープフラフープ

はらの趣味です

濁った瞳がいとおしかった

 

体調が悪い。頭が重くて、なんとなく胸がぬっとして、こういうのを倦怠感って言うのだろうか。いつもこんなかんじだけど、こうして電車に乗って座っていると自分の体に意識がいく。いつもこんなかんじだから、そんなに辛いとも思わない。全然大丈夫。今日は寝る前にビタミン剤でも飲もうかな。

 

「花束みたいな恋をした」を映画館で一度だけ観て、当時のわたしはあれを恋愛映画として受け取った。その後いろんな人のレビューや批評を読んだりきいたりして、わたしが映画を観た時に感じたものが少しずつ剥がれ落ちて、それを覆うように代わりの言葉がたくさん貼りつけられていった。中でもその頃付き合っていた人のfilmarksレビューが鮮烈に残っていて、花束をもう一度ちゃんと観るのが怖かった。

最近Netflixで配信が始まったのを機に、ちゃんと見返してちゃんと自分の気持ちを考えたいと思った。2回目の花束は、「確かに漫画一緒に読むのめちゃくちゃやりにくいよな」とか「好きな芸人のライブよりよくわからん男を優先すな、は本当にそう」とか思うけど、「いや、わたしとあなた一緒にチェンソーマン読んだじゃん」とか、「付き合う前、合わせてないのに同じ服装してた日あったじゃん」とか、「暇すぎて一緒にブレワイやったな」とか、あぁだからわたしにとってはあの映画が恋愛映画だったんだなと思った。出自は別だけど、好きなもので繋がって生活も性格も似通っていたわたしたちの心は、いつから違っていたんだろうな。

当時「冒頭でそれぞれの恋人に全く同じ話をするふたりは似通っていると思わせておいて、実はふたりで同じ話を聞いたことがあっただけで似ているわけではなかった」とレビューを書いた。今は「イヤホン半分こをする人をみて同じことを思い出し同じ言葉を選んで話すふたりはやっぱり似ているのだ」と思う。わたしたちはたぶん今でも似ているし、会えばまた好きなものの話をするのだろう。わたしがあの頃よりいろんなものを好きになりいろんな言葉を覚えたこと、あなたはこれからもずっと知らない。

花束の思い出が成仏した。

 

その数日後、なんとなく観られなかったチェンソーマンの1話を観た。チェンソーマン1部も一度も読み返せてなかったから新鮮な気持ちでみられたし、頭の中でできてたイメージと実物とのズレみたいなものを感じて、「記憶なんてすぐに曖昧になるのだから、好きなものは何回だって見返そう」と思った。

オープニングが超〜かっこよくてすぐにチェンソーマンのプレイリストを作った。米津玄師ってすごいんだなやっぱ。エンディングがエンドロールみたいになってるのもチェンソーマンっぽいし、エンドロール形式だからできる「毎回曲を変える」というのもすごくいい。

チェンソーマンの思い出も成仏した。

 

 

ここまで書いたら表参道に到着して、乗り過ごさないようにスマホをポケットにしまった。渋谷でちゃんと降りられて、夕ご飯にスパイスカレーを食べてから、よしもと無限大ホールで「仁丹天丼丸三角」というコントライブを観た。体調の悪さなんて本当に綺麗さっぱり全部ふっとぶくらい面白くて、1時間でたくさん笑って、まわりの人の笑い声に嬉しくなった。惰性でする拍手じゃなくて、ほんとうにする拍手をたくさんした。拍手と笑いは似ている。たくさん集まるとひとつの塊になって、なんだかすごく嬉しくなる。

目当てのダウ90000のネタは、「10000」で一番好きだった「今更」のアップグレード版だった。さらに面白くなっていて、切れ味の鋭くなった忽那さんが最高だった。あのコントの吉原さんのキャラクター、めちゃくちゃ好き。イイ女だよ。

Gパンパンダもずっと生で見たかったから、大好きなお仕事コントがみられて嬉しかった。面接の嘘と建前についてのコントで、「本音出していいよ」って言われた時どこまで本音出すかの駆け引きってマジで難しいよな〜と思った。わたしも星野さんみたいな優しそうな人に面接されたら言わなくていいことまで言っちゃうかもしれない。どこまでが一平さんの素かも曖昧で、星野さんがそれを面白がって笑う姿がめちゃくちゃ好きなんだよな。

みんな本当にすごく面白かったから、配信も買っちゃおうかなと思っている。「車がみっつ、ロキがふたつ、心臓はひとつ」「そばだけに」「どっちがわたしになるのかな」その時その時好きだと思ったパンチラインも、もうすでに記憶が薄れ始めている。何回でも観たい。思い出したい。時間が欲しい。もっと長く配信しといてくれよ〜。

 

家に帰る。うちのオートロックはパスワードでよく使われる語呂合わせで、こんなんで大丈夫なのかと思いながら数字を打ち込み、戸を開け、階段をのぼり、雑然とした部屋に入る。

真っ直ぐ家に帰ってこの時間だもんなあ。遠いよなあ、東京。と、てっぺんで重なりそうな時計の針を見上げて思う。これはちょっと嘘で、わたしの家には置き時計しかないし、全部電池が切れているし、なんならまだ引越しの段ボールから出してもいないけれど、時間が23:55なのはほんとう。このブログを更新する頃には日付も変わっているだろうけど、わたしは日付をしれっと10/22 23:59に直して投稿する。真っ赤な嘘ではなく、茜色くらいの嘘。人生もコントも、茜色の嘘であふれている。