フープフラフープ

はらの趣味です

たくさん抱えていたい

 

 

全然大丈夫じゃないかもしれないときが定期的にたまにくる。かっこ悪いし往生際が悪いと思われたくなくてずっと大丈夫なふりをしていた。でもなんのために匿名でブログやってんだって考えたら、綺麗な自分を作り上げるためじゃなくて自分のあたまを整理して見つめ直すためだったじゃんって思い出して、往生際が悪いと思われてしまうような話を書くことにした。

 

どこが好きなのかを誰にも話したことがなかった。相手にすら言わなかった。嬉しかったことも嫌だったことも好きなところも苦手なところも、大事なことは全部自分ひとりの中に隠していた。言おうと思えば文句も無限に言えるけど、好きなところも無限に言える。でも自意識が邪魔してそれができない。だからこうやって気づかないうちに感情が捨てられないゴミ袋の底で熟成されて、腐ったそれが知らないうちに袋に穴を開ける。もうわたしひとりでは片付けられないから、知らないだれかが読んでくれるかもしれないところで片付けたい。Twitterで部屋片付けますってツイートするとちょっとやる気出て片付けられるみたいな、そういうこと。

 

好きなものの話を楽しそうにしてくれる人で、その人の好きなものを共有するのが楽しくて大好きだった。知らないことに引け目を感じているわたしに、「あなたが今生まれて初めてこの曲を聴けることがとても羨ましい。私にはもうできないことだから」と聴かせてくれたことが、新しいものに触れる勇気をくれた。だけど、わたしからなにかを薦めることは怖くてできなくて、それが全てだったんだと思う。何が怖いってそれもよくわからないんだけど、あなたのことが怖かった。あなたに失望されるわたしになるのが怖かったのかもしれない。

 

世界を広げてくれたそれらの作品たちに、離れてからは触れられなくなってしまった。ひとつひとつに思い出がありすぎて、触れてしまったら保てなくなってしまいそうで視界から外してきた。だけどそれももう限界になってきている。わたしが飛び込みたいと思う世界には、或いは好きでい続けたい場所には、避けては通れないくらいには思い出の染み付いたあれこれが転がっている。そりゃあそうよ、好みと生活が似ているからあんなに距離が縮まったんだもの。これから好きになるものの中にそういうものたちが紛れていることは当たり前のことだし、だからこそ触れる勇気を持たなきゃいけない。そうしないと思い出が顔を覗かせる度に傷つかなきゃいけなくなる。そんな風に自分を擦り減らすのなんて間違ってる。そんなことで好きが広がらなくなってしまうのはもったいないことだと思うし、とかって言い訳をして、聴きたくない聴きたくないと思っていた曲を流している。歌詞を見なくても歌えるくらいには繰り返し聴いた曲だった。案の定それはもう涙が出てきたけどやっぱめちゃくちゃにいい曲だった。当時よりもずっとその曲を好きでいることが皮肉で不思議で嬉しかった。なんかたぶん、もう大丈夫な気がした。

 

いい加減これでおしまいにしたい。あの日バックアップをとってしまった感情に初めて向き合えている気がする。えるしっているか、バックアップって上書きできるんだぜ。