フープフラフープ

はらの趣味です

大丈夫じゃなくて

 

インスタグラムにでてきた前の職場の知り合いが、怪しい宗教のものを売る人になっていた。帰りの電車は非常停止ボタンで止まり、すぐに動き出した。隣に座った男の人のブーツがわたしとほとんどお揃いだった。向かいの寝ている人はなにかの音楽を聴いていて、わたしもなにかの音楽を聴いている。電車が遅れたのに乗り換えの駅で乗りたい電車は待ってくれていて、車内アナウンスで車掌さんが遅延を謝っている。いつのまにか耳の奥の拍動はきこえなくなり、顔は熱いのに既に酔いがさめてきたことを自覚する。エスカレーターの上でなにかを探す人。こんな時間に駅のロータリーにいる迎車のタクシー。会いたい人に会いたい夜だ。

 

カネコアヤノの武道館に行ってきました。

プロジェクションマッピングやいろんないろの光を使うでもなく、スモークと彩度の違うオレンジの光だけであそこまで世界が表現できることにとても驚いたし、意味がわからないくらい音楽がよかった。MCもないまま曲だけをただひたすら演奏して、最後にちょっと「ありがとうございます」を繰り返すだけのMCをして、客席に返す早口の「ありがとうございます」と「生まれてきてよかった」という言葉をきいて、カネコアヤノという人間のことも大好きになってしまった。あなたが生まれてきてくれてよかった。

会いたい人がたくさんいることはとても幸せなことで、だけど会えない人もいて、もう会えなくなってしまった人に会う手段が音楽しかなかった。だから武道館の今日のあの席は、2曲目の「アーケード」の最初の音が鳴った瞬間から、大好きな友達の隣であり、Twitterのタイムラインであり、大晦日カラオケボックスの中であり、今はもう知らない誰かが住んでいる狭いワンルームのベッドの上だった。「セゾン」を聴けば嫌いだったぼろぼろの座椅子の縞模様が浮かんだし、何度も聴いたはずの「光の方へ」は、あなたの歌じゃなくてわたしの歌だった。きっとふかふかの布団と枕があれば、あなたと月までバカンスにだって行けたはずだ。

 

自分の選んできたものが本当に正しかったのか、選びとろうとしているものが本当に正しいものなのか、そういうことをよく考える。だれかと離れるということ、仕事を辞めるということ、違う場所に住むということ。人生の中の大きな選択を、なにかを捨てるということを、どうしたら正しくあれたのか、ずっとずっと考えている。

わたしはどうしてこうも歩くのが遅いのだろう。汚れたブーツを脱いで重たいリュックをおろせたら、身軽になってスキップだってできるのに。捨てるには惜しいものがたくさんありすぎるし、それがあるからわたしでいられるのだし、だけどやっぱり、その荷物を、惜しいけど大事にしなくていいはずのものを置いておける場所が、どこかにあってほしいと思う。いつか自分で取りに帰るまでとっておいてもらえたら、きっとなんだってできるんだろうな。でも取りに帰った時にそれがそこにある保証がないから、こわくて荷物を手放せない。手放せないから両手は塞がれていて、結局なにも手に入らない。たいした荷物でもないのにね。

仕事をやめたらやりたかったアルバイトの仕事に就きたいと、みんなに話している。まわりが結婚したり資格を取ったりしている中、別に叶えたい夢があるわけでもないのに、ただやってみたかったってだけで、わたしだけそんなことをしていていいのだろうか。それでなんにも残らなかったら、わたしは後悔せずに生きられるのだろうか。わたしのまわりには「ちゃんとしたひと」があまりに多いし、数少ない「ちゃんとしてないひと」も今はもうちゃんとしてしまっているみたい。じゃあちゃんとすることに向いてないわたしはどうしたらいいだろう。人生が40くらいで幕を閉じるのであれば、なにも迷わず好き勝手できるのにって、毎日思っている。命が終わるボタンが欲しい。

 

リップクリームのせいで浮いた唇の皮をさわりながら、ちょっとだけ残るアルコールの気配を殺すように、お茶を飲んだから寝る。