フープフラフープ

はらの趣味です

タイトルが決まらないまま20分が過ぎた。

ブログってどうやって書くんだっけ。ちょっと忙しくなってちゃんとした時間が取れなくなって、半年の間に書きかけの下書きが16もあるのに、どれも推敲されないまま眠っている。君がかつて住んでいた街へ向かう電車の中で、空腹を紛らわすようにこれを書き始めた。このまま乗り換えの駅で降りるのを忘れて、東京のどこかで降りて、みつけたホテルに泊まって昼までゆっくり眠りたい。

 

やっぱり、久しぶりに書くとちょっと恥ずかしいや、ブログ。

ほんとうは、たくさん溜まったラインを開くのが億劫で、そこから逃げるためにブログを書いている。いつだって必要なことは後回しにしてしまう。

 

ディズニーランド帰りの耳をつけたままの人が、真顔のままスマホを眺めている。電車の中の人は半分くらいがマスクをしていない。斜め前の席が開いたので座ると、反対側にもうひとりミニーマウスの耳の人がいた。お誕生日シールをつけていたので、おめでとうと心の中で伝える。

 

今日は映画館で「aftersun/アフターサン」という映画を観た。ネタバレも含めて感想を書きたい。

この映画は、離れて暮らす30歳の父と11歳の娘が夏の間ふたりで海にバカンスへ行く数日間を描いたものだった。あらすじと雰囲気で、きっとわたしは退屈してしまうことがわかっていたけれど、友達やフォロワーさんたちみんなが「いい映画だった」と言っていたので、観にいくことにした。それがわたしにとっていい映画じゃなかったとしても、観た後に自分が何を思うのかを知りたかった。

映画を観ている間の多くの時間わたしの頭の中を占めていたのは、映画とあまり関係のない事柄だった。数日前に発してしまった失言のこと、大学時代の秋に行ったグランピングのこと、屋外の飲み会で席を外した時に遠くから聞こえてくるみんなの声のこと、久しぶりに連絡するあの人になんてラインを送ろうか、なんてこと。網膜にうつる映像が脳みその考える場所を通らずに、どこか違う道を通って直接海馬の端に到達しているような、そんな感覚で映画を観る。だれかが言葉を発する。字幕が出る。字幕を読む。映像を眺める。

こんな書き方だとまともに映画を観ていなかったように捉えられるかもしれないけど、いろんなことを考えながらもちゃんと映像は堪能していた。画面の切り取り方、映像の質感、聞こえてくる音の取捨選択、重なり合う場面と手、夏の海の広くて眩しい空、揺れるみなも、全てがとても美しくて懐かしくて楽しかった。最低限の言葉と雄弁な映像でものごとをあらわす作品を観ると、今日映画館に足を運んで良かったと心から思えてくる。

後半、ポラロイドカメラで写真を撮ってもらうシーンがあった。写真を撮った後、机に置かれた写真だけがうつされ、ふたりの話す声が聞こえる。じょじょに浮かび上がる写真が、過ぎゆく時間のゆるやかさを実感させる。ふたりがどんな会話をしていたのか全く思い出せないけど、そのシーンで涙が出たことだけは覚えている。映画を観ているとよくある泣かされて出る涙ではなくて、わけがわからないまま勝手に出てくる言語化できない涙だった。その瞬間、過ぎていったひとつひとつのシーン、映像がとても愛おしく思えて、この映画のことが大好きになった。

映画の最中、多くの場面でわたしが感じたのは疎外感だった。みんなと一緒にプールに飛び込んだ後、楽しむみんなを水の中から眺めてひとりプールから上がる場面。大人たちが水球に興じる真ん中で、球に触れないまま大人を眺める場面。優しいお兄さんお姉さんの飲み会から少し離れた場所で飲む清涼飲料水。「みんな」がいる場所で、なんとなく「みんな」の一部になれなくて、気づかれないように少し距離をとるときの疎外感。だからこそ、踊らないと断言した娘の手を無理矢理とって一緒にダンスを踊るシーンがとても好きだった。それは「みんな」との同化の強制では決してなくて、「みんな」の一部じゃなくたってみんなと一緒に踊ることはできるし、それが嫌ならふたりで踊ればいいし、「へんなの」って言われながら部屋でひとりで踊るのも楽しいってこと。

映画の折々で挟まる印象的な場面。暗闇とストロボの中で必死に踊る父親は、よく見えなかったけれど、楽しそうでもあったし苦しそうでもあった。まわりにはいろんな人がいた。きっとそこは父親の人生であり、時には楽しい場所でもあり、おおむね地獄でもあったのだろう。でもその地獄は、周りの人からはよく見えないし、よくわからない。

わたしもわたしの地獄を、きっと人からは見えない地獄を、ひとりで、時には誰かと楽しく踊りながら、あの夏の思い出を握りしめて、生きられるところまででいいから生きようと思った。

 

 

 

大好きなCDをかけてあの頃にかえろう

 

ブログ書きて〜って思ってたし書くこともあったのに、書くのがめんどくさすぎて全然書いてなかった。やりたいとめんどくさいは両立する。しかもけっこう比例する。楽しいことはめんどくさいよね。

(「少女は卒業しない」についてざっくりとしたネタバレがあります)

 

今日は仕事を定時で終わらせて映画を観よう!って決めてたのに、結局1時間サービス残業して、急いでタイムカードを押して(なんでタイムカードあんのに残業代でないん)(なぜなら、みなし残業45時間だから!)、上映開始時刻の5分前に映画館に到着した。急いでお手洗いを済ませて、チケットを購入して、売店でホットドッグのドリンクセットとクレープアイスのいちご味を買う。仕事帰りの一本には、いつもこのメニューがお供してくれる。そしていつも売店の横でストローを刺して、ホットドッグにケチャップをかけて、ゴミをちゃんと分別して捨ててスクリーンへ向かう。普段の分別はちょっと適当な時もあるけど、こうやって「紙類」「プラごみ」とデカデカ書かれると、ちゃんとせざるを得ない。好きな場所で悪いことしてる気分になりたくないから。

7番スクリーンの入り口で、これから観る映画のポスターを撮影する。終わった後、いつもこの写真をTwitterにアップロードしている。ほんとうはインターネットでポスターの画像を保存したほうが見栄えがいいんだろうけど、写真が下手くそなのも含めて、見返したときに思い出すものが多い方がいいから。

座席は後ろから2列目の端っこ。学生の頃は前方が好きだったけれど、ここ数年は後ろの方で観るのがマイブーム。わたしの後ろに誰もいなかったから、上映中何度か振り返って映写室のガラス窓を眺めた。そこにうつる映画の光を見ると、なぜか嬉しくなる。嬉しい、は違うかも。当てはまる言葉が見つからない。坂元裕二の言葉を借りるなら、きっとわたしはみぞみぞしている。

「少女は卒業しない」は、取り壊しの決まった山梨県のとある高校の卒業式前日から当日までを描いた青春群像劇だった。原作者の朝井リョウは「桐島、部活やめるってよ」や「何者」のように「みんな持ってるけど持ってないふりをする汚い感情や意識」を描いた作品のイメージが強いけれど、この映画はそういった「ワー!やめて!」ってなるような要素はほとんど排除されていた。淡い片思いや進学に伴う関係性の変化、大きな喪失体験との関わりを、実感の湧かないライフステージの切り替わりを通して非常に爽やかに描いた作品になっていた。「終わってほしくない」という、人生の中に何度もあらわれたことのある馴染みの感情を見つめていると、この子たちはきっとこれから先にたくさんの大切な「終わらないで」があるのだということをとても羨ましく感じる。その尊さがわかっていても、いつだって「終わらないで」と気づくのは終わりのしっぽが見えてきた時だ。わたし自身の「終わらないで」の思い出と、気づかないうちに大切になっているのであろうこれから過ごすいつかの時間に思いを馳せる。

ベージュのカーディガンに丸メガネの藤原季節がめちゃくちゃよくて、あんな先生いたら絶対に一生片思いする自信がある。すらりと伸びるスラックスをみて、スタイルいいなあ一回でいいから近くに立ってみたいな、と思った。くそやろうの役も情けない役も、こういうふうに素敵な役もなんでもこなす彼には「季節」という名前がぴったりだ。

 

映画が終わり、出入り口のところにある今後の上映予定表をみて、「これが上映される頃にはもうこの映画館に来ることはないんだろうな」と考えたらすごく寂しくなった。どうやらわたしは、いつのまにかこの映画館をかなり好きになっていたらしい。こんなところでもまた、「終わらないで」が顔をのぞかせている。

車に戻ってからしばらく、映画館の外にいる警備員のおじさんの姿をぼうっと眺めていたら、高校3年生のときに片思いしていた別の高校の友達のことを思い出して、帰り道にその人が好きだった「Peace」を車で流した。笑うとあんぱんみたいでブサイクだったけれど、バスケ部で背が高くて、好きなもののセンスがよくて、彼を見上げながら話すとくしゃくしゃのあんぱんがオシャレに輝いて見えた。今は結婚して二児の父になった彼のインスタグラムで、あんぱんみたいに笑うかわいい子供達の顔をよく見かける。

このツアーのときに最前から2列目だったのに左隣の彼女絶対守るマンの肘が常に脇にヒットしていて最悪だったことを思い出した。ライブで彼女を守るな、音楽を聴け。

692円

 

最寄駅の改札にかざしたiPhoneにうつる692円という文字が東京との距離を物語る。近い気もするし、遠い気もする。今日の運賃は、往復で1800円くらい。映画一本分くらいの値段と、短めの映画二本分くらいの時間がかかる。

 

友達の「あなたにとって、映画館で映画を観ることは特別なことなんでしょう?」という言葉に背中を押されて、新文芸坐で「パルプ・フィクション」を観てきた夜に、これを書いている。正直当日の14時くらいまで「めんどくせ〜」がちょっと勝っていたけれど、Twitterで映画の冒頭シーンをみていたらすごくかっこよくて、それが最後のひと押しになってインターネットでチケットを予約した。日曜日に買おうと思っていたスニーカーを買ってしまうために早めに家を出て、電車を乗り継いで池袋に向かう。それなりにガラガラなのに、端に座るわたしに背を向けて半分覆い被さるように立っている女の人にいやだなあと思い席を立った。譲れということなのかと思ったのに全く座る気配がなかったから、なんなのよと思いながら電車を降りてPARCOに向かう。目当ての靴屋で目当てのスニーカーを試着したら、思っていたよりずっとかわいくてすぐに購入した。自分にぴたりとハマるなにかと出会えた時の高揚感はすごく気持ちが良い。わたしはこの靴を、今後長い間大切に履き続けることになるだろう。

PARCOのレストラン街の抹茶のお店で夕ご飯を食べて、新文芸坐へと向かう。ここへ来るのは3、4年前に昔の恋人と「ハッピーデスデイ」「ハッピーデスデイ2U」を観にきた時以来だ。その日は東京コミコンの日で、コミコンから映画をハシゴしたのを覚えている。別れた相手を映画に誘った自分の気持ちは、あまり思い出せない。なにがしたかったんだろう。

エレベーターに乗り劇場に到着すると、ロビーは人でごった返していた。もしかしたらTwitterのタイムラインにいる人がこの場所にいるかもしれないということに、インターネットと現実の境目の曖昧さを感じながら、チケットを提示して座席へと向かう。5分の予告の後に、「パルプ・フィクション」が始まる。

どハマりしたかと言われるとそんなことはないけれど、映画館で観ることができてよかったと心の底から思う。この映画を褒める人の気持ちも貶す人の気持ちも両方よくわかる。観終わってすぐはそんなに気持ちが湧き立たなかったけど、四半日経った今、映画の好きなシーンがたくさん思い浮かぶ。この映画のこと、もしかしたら好きなのかもしれない。よくわからない。ふるったかふるわないかで言うと、ちょっとふるっている。

 

映画を評することは難しい。「良かった」「悪かった」「面白かった」「つまらなかった」「好きだった」「嫌いだった」「すごかった」「しょぼかった」、それってひとつの要素でしかなくて、「良い映画だけど好きじゃない」とか、「面白かったけどクソ映画」とか、そういうのを総合した言葉として「ふるった」「ふるわなかった」という表現をわたしは使う。漢字は「猛威を奮う」の「ふるう」で、映画がわたしに対して投げかけたなにかが、わたしに影響を及ぼしている、みたいなイメージ。便利な言葉なので、よかったら使ってみてね。

 

 

たくさんある

 

やることが多い。やることだらけ。羅列することでやることの多さを具体的に自覚するのが嫌で、やることから目を背け続けている。催促のあったものだけ手をつける。こんなんだとどこかで綻びが出ることはわかっている。

 

前に、Twitterで「無言でメルマガを解約するスペース」をやった。何人かきてくれて、45分かけて25個くらい解約した。最後までいてくれた人がふたりいて、お礼を言って終わりにした。

こんなふうに、誰かの目がないとなにもできない。自分ひとりだと甘えしか生じない。だから、あの日スペースに来てくれた人みんなにとても感謝している。あなたがそこに(なにかしながらでも)割いてくれた時間が、わたしのメールボックスを救っている。

あんなに解約したのにまだ全然メルマガはくるので、またやるかもしれない。その時はよろしくお願いします。

 

というわけで、やることをやりますと宣言して誰かの目に晒すため、並び連ねようと思います。上から大事な順。

 

・公共料金を支払う

・駐車場の貸主に免許証の写真を送る

ソフトバンク光に引っ越しの連絡をする

・よくわからないまま契約させられたインターネット回線を断る

・電気会社に支払いの登録をする

・インフラ系に契約の電話をする

・家の退去の連絡をする

・溜まった服を洗濯する

・職場の会報誌の寄稿文を送る

・講習会の支払いをする

・職場のビデオ講習を受ける

・職場の勤怠登録をする

・有給の届出をする

・シフト希望の提出をする

・資格試験の受験資格を満たしているのか確認する

・資格試験のための登録をする

・資格試験のためのデータ入力をする

・職場が変わる登録みたいなことをする

マイナンバーカードの顔写真を送る

・引っ越しのダンボールがくる日を決める

・資格試験の準備をする(テキストを買う)

・銀行の口座残高を確認する

・確定申告の準備

・次の美容院を予約する

・名古屋に行けるのか確認する

・食器を洗う

・トイレ掃除

・風呂掃除

・部屋の掃除

・部屋の片付け

・書類整理

・布団を洗う

・バッグのお手入れ

・革靴のお手入れ

・スニーカーを洗う

・パソコンを買いに行く

・甘平がいつ届くのか確認する

・使わないものをダンボールにしまう

・いらないトリートメントを寄贈する

・職場に届いたトイレットペーパーを持って帰る

 

40個ある。

書いてみて資格試験関連が一番のストレスということが判明したので、それを今月は絶対やることにする。他は掃除関連とか比較的やりやすいものをやりつつ、公共料金とかの致死的になりうるものを今日から1日2個を目標に片付けていく。このままだと本当に生活というものが成り立たなくなるので、歯ぁ食いしばって頑張ります。頑張る……

 

 

おやすみ

 

朝、職場の中を移動しながら、「今の仕事は面倒くさいからやりたくないみたいな消極的な嫌さじゃなくて仕事そのものが大きなストレスだからやりたくないんだなぁ」と思えて、せっかく売店にオムライスのおむすびがあったのに全然嬉しくなれなかった。嬉しくないけど一応買って、一応食べたらそんなにおいしくなかった。仕事はまぁまぁ順調に片付いて、定時に終わった。

仕事をしていて「信頼しています」という言葉に「すみません」と返してしまった。謙遜のすみませんではなく、謝罪のすみませんだった。わたしみたいな仕事を好きだと思ってない上に勤勉とは真逆で、能力もない中ギリギリやれている(やれていないときもある)かんじのひとが担当をしてしまってすみません。その信頼はほんとうに信頼なのか、わたしには自信がありません。それを言葉通りに受け取るとして、期待というものが持つ重さが、傲慢にも、わたしはとても苦手だ。誰に対しても、とても失礼な考え方だ。がっかりされることが怖いと、責任を取りたくないと、そういうことばかり考えている。

 

ひじがかゆい。かぶれて、乾燥して、かさぶたになっている。友達へのラインの返事が24時間以上あいてしまう。ゴミが捨てられない。家賃が払えない。

大型ショッピングモールで夕ご飯を食べるレストランを選んでいたときに、自然と「メニューを選ぶのに頭使いたくない」「食べる順番に頭使いたくない」「食べるときにあんまり頑張りたくない(口を大きくあけたり、箸を複雑に使うものはだめ)」を基準に夕飯のお店を選んだ。小説を持参していたため待ち時間で読もうと思っていたけれど、なんだかやる気がしなくて、放置してぽちぽちレベルだけ上げるスライムのスマホゲームをぼーっと眺めていた。ご飯はおいしいもののはずなのに、あんまりおいしくなかった。ぼけっとスマホをみながら、電池がなくなっちゃうけど、なんだかゲームをやめられないな、と思ったところで、これは心に元気のない証拠だ!と思った。そう思ったら、ここ最近あった生活が崩れていくかんじが、なんだか辻褄の合うかんじがして、ほっとした。

 

雪が降ると言われていたのに、大丈夫でしょと高を括って車で遠くのショッピングモールに赴いた。ちょうど父親と連絡をとっていたのでそのことを伝えたら、「危ないから帰った方がいいよ、雪が一気に積もることもあるから」と返事が来た。既にモールに着いていたので、ご飯を食べて、食べたあと映画館のところに行って、開場時間までどうしようか迷った挙句に、「食後で眠くて運転したくない」「今日映画をみようと思い立ったのは今日みなきゃいけないものだからだ、たぶん。だからたぶん雪は降らない」とかいろいろ考えているうちにチケットを買っていて、「あつい胸さわぎ」という映画を観てきた。

 

いろんな人がでてきて、それぞれがなにかを抱えていたり、もしくはなにかが欠けて(欠けようとしていることに悩んで)いたりする。それは捨てたり埋めたりすることはできないもので、だけどもみんな、たしかにだれかを無意識に或いは意識的に愛していて、てのひらを介してその愛が体に残る。誰かが「どうにかしたい」と思っている部分のそのままを肯定する映画だった。わたしだけが幸せではないのだと、そういう疎外感を抱えた記憶と、てのひらから貰った愛の感覚が、エンドロールといっしょに流れていく。

目当ての半分だった前田敦子がやっぱりとてもよかった。「町田くんの世界」「くれなずめ」「もっと超越した所へ。」「そばかす」「そして僕は途方に暮れる」と、わたしが観た映画に出てくる前田敦子はどうしてこうも最高に魅力的なんだろう。その中でもベスト敦子と言ってもいいくらい、今日のあっちゃんも素敵だった。素敵な前田敦子のでてくる作品があれば、おしえてください…

 

映画が終わって、スマホのバッテリーの残りを確認したら1%だった。エンドロールの間に少しだけ思い浮かべた人から1年ぶりにラインがきて、すごくびっくりした。すぐに返事をして、車に乗って、カーステレオをつけたらBUMP OF CHICKENの「orbital period」が流れた。雪は降っていなかったし、積もってもいなかった。なにかの予感に思い立って遠くまで車を走らせて、映画をみたらそれは自分にとってとくべつなもので、降らなかった雪と、かつてとくべつだった、今はとくべつじゃない誰かからきた言葉の羅列に、スマホの上で共有した少しの時間に、わたしからのとくべつと少しの愛をこめて。

できるだけわかりやすく返すね

住みたい家が見つかった。内見したらとても素敵な家で、ウキウキで申込書を書いて見積もりを出してもらったら、初期費用がとんでもない額になっていた。敷金1ヶ月、礼金2ヶ月、仲介手数料1ヶ月、そこに新築だからどうたらこうたらとよくわからない料金が上乗せされ、予想の1.5倍くらいの料金が提示され、「ちょっと、高すぎますね…」と恥をしのんでお断りした。代わりにみつけた家は、今の家を縮小してさらに古くしたようなところだったけれど、それでも今の家より家賃が数段高かった。引っ越したくない気持ちがちょっと強くなった。次に住む街はこんなに家賃が高いのに治安も悪いし、近くに映画館もないし、最寄りの映画館はショッピングモールの中にあるので家族向けの映画ばかりで、洋画は吹き替え優先だし、わたしのすきな映画をあまりやってくれない。都内へのアクセスは、まぁ、いいけど。どこでもドアがあればすべて解決するのにって、いつも思う。

不動産屋の帰り、ノートパソコンを探すためにショッピングモールをたずねた。朝からなにも食べておらず眠気でおかしくなりそうだったので、いつも人が並んでいる蕎麦屋の前のイスに座ってまどろんでいた。すぐに順番がきて、カウンター席に通される。カウンターの目の前は厨房で、コンロの炎だって間近に見えるくらい風通しのよい作りになっていた。そばをゆでる深いザルが、鍋の熱気でゆらゆら震えている。カウンターの中で、プログラミングされているかのようにてきぱきと焼いたりゆでたり混ぜたりする3人の無駄のない動きの流れを美しいと感じる。白い仕事着の半袖からのぞく筋肉質な腕をみて、料理って力仕事だもんなぁと思った。仕事だから、だけど、誰かがこうやって一生懸命作ってくれたおいしいものを食べられるのは、とてもよいことだ。客が店に入れば「いらっしゃいませ」店を出れば「ありがとうございます」と言うのが店のきまりなのだろうか。「しゃいっせー」「りがとございまーっ」ともはや誰のためなのかもわからない、届けるつもりもなく届きもしない言葉が調理のさなかに飛び交う。かつてコンビニではたらいていたときに、同じように届けるつもりのない機械的な挨拶をしていたことを思い出した。わたしのために作られたけんちんうどんを啜りながら、わたしのためではないその挨拶を耳の奥で反芻する。

 

友達が「刺さると思う」と言って吉本ばななの短編集「デッドエンドの思い出」をすすめてくれた。どの話もよかったけれど、特にいちばん最後の表題作が、思い出すだけで泣いてしまうくらいよかった。読み終わって友達に感想を送ったら「はらの話だと思った」と言われて、そう言われたらそんな気がしてきて読み返して、読み返したらわたしの話だった。物語の表層ばかり読み取ってしまうわたしにとって、表層ではなく深いところで自分と共鳴する物語をそうだと知覚できたことは貴重な体験だし、それは他者がいなければ起こりえなかったことだ。そう思えば、この本がより一層大切なものとなった。

「好きだと思う」「刺さると思う」「読んでほしい」というふうに何かを特定のだれかに薦めるのは、プレゼントと同じだと思う。たとえその作品を好きになれなくても作品に触れてわたしを思い起こしてくれたことが嬉しいし、好きになれたならそれはきっと宝物みたいに大切なものになるだろう。

「デッドエンドの思い出」は、苦しみや辛さとの向き合い方についての物語だ。わたしの抱えている苦しみの全てはきっとだれにもわかってはもらえない。似ている境遇のひとがいても、それは絶対に全く同じものではない。だけどたぶん、わからないところがあるからこそわたしたちが一緒にいる意味だってあるし、共感だけが救いになるわけではないのだと思う。ただそこにある心地よさや、共有した時間や、伝えた言葉や、背中をさすってくれたその手が、それがあったということが、あなたがこうだと思うわたしがいるということが、お守りになって生きる力をくれるのだと、そう思っている。

 

 

 

大丈夫じゃなくて

 

インスタグラムにでてきた前の職場の知り合いが、怪しい宗教のものを売る人になっていた。帰りの電車は非常停止ボタンで止まり、すぐに動き出した。隣に座った男の人のブーツがわたしとほとんどお揃いだった。向かいの寝ている人はなにかの音楽を聴いていて、わたしもなにかの音楽を聴いている。電車が遅れたのに乗り換えの駅で乗りたい電車は待ってくれていて、車内アナウンスで車掌さんが遅延を謝っている。いつのまにか耳の奥の拍動はきこえなくなり、顔は熱いのに既に酔いがさめてきたことを自覚する。エスカレーターの上でなにかを探す人。こんな時間に駅のロータリーにいる迎車のタクシー。会いたい人に会いたい夜だ。

 

カネコアヤノの武道館に行ってきました。

プロジェクションマッピングやいろんないろの光を使うでもなく、スモークと彩度の違うオレンジの光だけであそこまで世界が表現できることにとても驚いたし、意味がわからないくらい音楽がよかった。MCもないまま曲だけをただひたすら演奏して、最後にちょっと「ありがとうございます」を繰り返すだけのMCをして、客席に返す早口の「ありがとうございます」と「生まれてきてよかった」という言葉をきいて、カネコアヤノという人間のことも大好きになってしまった。あなたが生まれてきてくれてよかった。

会いたい人がたくさんいることはとても幸せなことで、だけど会えない人もいて、もう会えなくなってしまった人に会う手段が音楽しかなかった。だから武道館の今日のあの席は、2曲目の「アーケード」の最初の音が鳴った瞬間から、大好きな友達の隣であり、Twitterのタイムラインであり、大晦日カラオケボックスの中であり、今はもう知らない誰かが住んでいる狭いワンルームのベッドの上だった。「セゾン」を聴けば嫌いだったぼろぼろの座椅子の縞模様が浮かんだし、何度も聴いたはずの「光の方へ」は、あなたの歌じゃなくてわたしの歌だった。きっとふかふかの布団と枕があれば、あなたと月までバカンスにだって行けたはずだ。

 

自分の選んできたものが本当に正しかったのか、選びとろうとしているものが本当に正しいものなのか、そういうことをよく考える。だれかと離れるということ、仕事を辞めるということ、違う場所に住むということ。人生の中の大きな選択を、なにかを捨てるということを、どうしたら正しくあれたのか、ずっとずっと考えている。

わたしはどうしてこうも歩くのが遅いのだろう。汚れたブーツを脱いで重たいリュックをおろせたら、身軽になってスキップだってできるのに。捨てるには惜しいものがたくさんありすぎるし、それがあるからわたしでいられるのだし、だけどやっぱり、その荷物を、惜しいけど大事にしなくていいはずのものを置いておける場所が、どこかにあってほしいと思う。いつか自分で取りに帰るまでとっておいてもらえたら、きっとなんだってできるんだろうな。でも取りに帰った時にそれがそこにある保証がないから、こわくて荷物を手放せない。手放せないから両手は塞がれていて、結局なにも手に入らない。たいした荷物でもないのにね。

仕事をやめたらやりたかったアルバイトの仕事に就きたいと、みんなに話している。まわりが結婚したり資格を取ったりしている中、別に叶えたい夢があるわけでもないのに、ただやってみたかったってだけで、わたしだけそんなことをしていていいのだろうか。それでなんにも残らなかったら、わたしは後悔せずに生きられるのだろうか。わたしのまわりには「ちゃんとしたひと」があまりに多いし、数少ない「ちゃんとしてないひと」も今はもうちゃんとしてしまっているみたい。じゃあちゃんとすることに向いてないわたしはどうしたらいいだろう。人生が40くらいで幕を閉じるのであれば、なにも迷わず好き勝手できるのにって、毎日思っている。命が終わるボタンが欲しい。

 

リップクリームのせいで浮いた唇の皮をさわりながら、ちょっとだけ残るアルコールの気配を殺すように、お茶を飲んだから寝る。