フープフラフープ

はらの趣味です

なんでも知ってますね

 

なんでも知ってたいと思う。でも知るってことの中には受け止めて考えるってところまでが含まれていて、それをひとつひとつの事柄にやっていくのは膨大な時間が必要になる。仕方ないからたくさんあるものの中からなにを知るのかを選んで、それが進路だったり、考え方だったり、生き方だったりに反映されていく。好きだったらもっと知りたいと思うけど、好きだからこそ知りたくないこともあるし、全然好きじゃないのにたくさん知っているものもある。全然好きじゃなかったのに、たくさん知ったら好きになったものもある。

 

RRRをみてきた。ほんとうは早起きしてキネマ旬報シアターでLOVE LIFEを観るつもりだったんだけど、LOVE LIFEチャレンジは通算3回目の失敗。もう一生観られない気がする。でもRRRがとても面白かったのでヨシ。

基礎知識が全くなくてもめちゃくちゃ楽しめるけど基礎知識があるともっと楽しいよ、ってやつ、大衆文化として最強だと思う。門戸も広いし、そこから掘ろうと思えばいくらだって掘れる。RRRはそんな映画。

わたしは社会科が超苦手で高校の世界史も赤点ギリ回避くらいでやってきたので、正直第一次世界大戦とか言われても「なんか日本側が勝ったっぽい」くらいのことしかわからないし、インドがイギリスに支配されていたのも「言われてみればそんな気がする」程度。全く興味がなくて覚える気が1ミリもなかった。RRRはインドの歴史に基づいた物語で、背景を知っていたらもっと解釈が深まるのだろうな、という部分が振り返ってみると多々あった。

解釈なんぞ深めなくてもこの映画にあふれる最高の「友情・努力・勝利」は存分に享受できるし、映像みてるだけで超楽しい。でもやっぱ、知ってることでもっと楽しめるのなら全部知ってたい。そもそも知識ないと楽しめない作品だってあったりする。そこまでいくとそれは知識人に向けた作品になってしまうから、悲しいことにわたしに向けたものではないということになってしまう。映画はだれにでも等しく開けたものであってほしいと願うのは、知らないことがたくさんあるわたしのエゴです。知らなくちゃ到達できないところがあるからこそ、だれにでも開けた文化が存在しているのにね。

この前読んだ原田ひ香の「人生オークション」という本の中の一作も、知らないと気づくことのできない核心に近いものがあって、解説文を読んで自分の教養のなさに滅入った。同時に、そんな大事なことがわからなかったのにこんなに楽しめる本、すげえなと思った。

もしタイムマシンがあるのなら、中学か高校に戻って「おまえが今1ミリも興味のない科目こそ今後の人生の糧となるのだからもっとちゃんと勉強しろ」とわたしを説得する。勉強は受験のためのものでもあるけど、(特に文系科目は)色々なものに感動するためにあるなと今になると思う。今から勉強しても遅いことはないけど、若くて時間もあって今よりも吸収力・定着力のある脳みそを持つ思春期にやっておけば、と何度も後悔した。

あと一般常識レベルの歴史を知らないことが普通に恥ずかしい。それに知らないことで誰かを傷つけてしまうこともきっとあると思う。だから本買った。買ったの前の家にいたときだから、買ってから数年経ってるな。

 

 

何回か読もうとしたけど頭に入らない。すごくわかりやすいけど、やっぱり歴史自体にはあまり興味が持てなくて、読むのに時間かかって途中で読むのやめちゃう。映画とか、旅行とか、そういった歴史を知った先にあるものは大好きだから、ほんとうは歴史のこと全部知っておきたいのにな。

 

歴史だけじゃなくて、ほんとうは面白いものやすごいものってたくさんたくさんあるのに、わたしは老いるし世界は先に進むから、どうやったってその一部しか知ることができない。わたしがこれから好きになるまだ出会ってないもの全部知りたい。そうするには、人と関わることが一番の近道だって、最近わかってきた。最近好きになったもの、ほとんどが誰かの影響を受けている。

人付き合いが苦手で友達なんて滅多にできないから、ぽけっとタイムラインみてるだけで新しいものが流れてくるTwitter、ありがてえなって思う。

 

こうやって、生きてるうちに知れることに限りがあるから、もとから同じものをたくさん知っている人に親しみを抱いてしまう。この人はわたしと同じものを選んできたんだなって思う。絹ちゃんと麦くんみたいに、これは運命だなって思っちゃったりしたこともある。好きなものの共有ってすっごく楽しくて、最初からそれがあると関係の構築が楽なんだよね。

だけども、知ってるものや好きなものだけがその人の価値や性質を決めるわけじゃない。むしろ知らなかったものに対する姿勢が大事な気がしてる。知ろうとすることは体力も時間も必要だけど、だからこそ、あなたの好きな、わたしの知らないものを、もっとたくさん聞いて、知って、好きになって、わたしの好きな、あなたの知らないものを、たくさん教えてあげられるような人がひとりでもいたら、それだけで幸せなんだと思う。読点多いな〜。

 

濁った瞳がいとおしかった

 

体調が悪い。頭が重くて、なんとなく胸がぬっとして、こういうのを倦怠感って言うのだろうか。いつもこんなかんじだけど、こうして電車に乗って座っていると自分の体に意識がいく。いつもこんなかんじだから、そんなに辛いとも思わない。全然大丈夫。今日は寝る前にビタミン剤でも飲もうかな。

 

「花束みたいな恋をした」を映画館で一度だけ観て、当時のわたしはあれを恋愛映画として受け取った。その後いろんな人のレビューや批評を読んだりきいたりして、わたしが映画を観た時に感じたものが少しずつ剥がれ落ちて、それを覆うように代わりの言葉がたくさん貼りつけられていった。中でもその頃付き合っていた人のfilmarksレビューが鮮烈に残っていて、花束をもう一度ちゃんと観るのが怖かった。

最近Netflixで配信が始まったのを機に、ちゃんと見返してちゃんと自分の気持ちを考えたいと思った。2回目の花束は、「確かに漫画一緒に読むのめちゃくちゃやりにくいよな」とか「好きな芸人のライブよりよくわからん男を優先すな、は本当にそう」とか思うけど、「いや、わたしとあなた一緒にチェンソーマン読んだじゃん」とか、「付き合う前、合わせてないのに同じ服装してた日あったじゃん」とか、「暇すぎて一緒にブレワイやったな」とか、あぁだからわたしにとってはあの映画が恋愛映画だったんだなと思った。出自は別だけど、好きなもので繋がって生活も性格も似通っていたわたしたちの心は、いつから違っていたんだろうな。

当時「冒頭でそれぞれの恋人に全く同じ話をするふたりは似通っていると思わせておいて、実はふたりで同じ話を聞いたことがあっただけで似ているわけではなかった」とレビューを書いた。今は「イヤホン半分こをする人をみて同じことを思い出し同じ言葉を選んで話すふたりはやっぱり似ているのだ」と思う。わたしたちはたぶん今でも似ているし、会えばまた好きなものの話をするのだろう。わたしがあの頃よりいろんなものを好きになりいろんな言葉を覚えたこと、あなたはこれからもずっと知らない。

花束の思い出が成仏した。

 

その数日後、なんとなく観られなかったチェンソーマンの1話を観た。チェンソーマン1部も一度も読み返せてなかったから新鮮な気持ちでみられたし、頭の中でできてたイメージと実物とのズレみたいなものを感じて、「記憶なんてすぐに曖昧になるのだから、好きなものは何回だって見返そう」と思った。

オープニングが超〜かっこよくてすぐにチェンソーマンのプレイリストを作った。米津玄師ってすごいんだなやっぱ。エンディングがエンドロールみたいになってるのもチェンソーマンっぽいし、エンドロール形式だからできる「毎回曲を変える」というのもすごくいい。

チェンソーマンの思い出も成仏した。

 

 

ここまで書いたら表参道に到着して、乗り過ごさないようにスマホをポケットにしまった。渋谷でちゃんと降りられて、夕ご飯にスパイスカレーを食べてから、よしもと無限大ホールで「仁丹天丼丸三角」というコントライブを観た。体調の悪さなんて本当に綺麗さっぱり全部ふっとぶくらい面白くて、1時間でたくさん笑って、まわりの人の笑い声に嬉しくなった。惰性でする拍手じゃなくて、ほんとうにする拍手をたくさんした。拍手と笑いは似ている。たくさん集まるとひとつの塊になって、なんだかすごく嬉しくなる。

目当てのダウ90000のネタは、「10000」で一番好きだった「今更」のアップグレード版だった。さらに面白くなっていて、切れ味の鋭くなった忽那さんが最高だった。あのコントの吉原さんのキャラクター、めちゃくちゃ好き。イイ女だよ。

Gパンパンダもずっと生で見たかったから、大好きなお仕事コントがみられて嬉しかった。面接の嘘と建前についてのコントで、「本音出していいよ」って言われた時どこまで本音出すかの駆け引きってマジで難しいよな〜と思った。わたしも星野さんみたいな優しそうな人に面接されたら言わなくていいことまで言っちゃうかもしれない。どこまでが一平さんの素かも曖昧で、星野さんがそれを面白がって笑う姿がめちゃくちゃ好きなんだよな。

みんな本当にすごく面白かったから、配信も買っちゃおうかなと思っている。「車がみっつ、ロキがふたつ、心臓はひとつ」「そばだけに」「どっちがわたしになるのかな」その時その時好きだと思ったパンチラインも、もうすでに記憶が薄れ始めている。何回でも観たい。思い出したい。時間が欲しい。もっと長く配信しといてくれよ〜。

 

家に帰る。うちのオートロックはパスワードでよく使われる語呂合わせで、こんなんで大丈夫なのかと思いながら数字を打ち込み、戸を開け、階段をのぼり、雑然とした部屋に入る。

真っ直ぐ家に帰ってこの時間だもんなあ。遠いよなあ、東京。と、てっぺんで重なりそうな時計の針を見上げて思う。これはちょっと嘘で、わたしの家には置き時計しかないし、全部電池が切れているし、なんならまだ引越しの段ボールから出してもいないけれど、時間が23:55なのはほんとう。このブログを更新する頃には日付も変わっているだろうけど、わたしは日付をしれっと10/22 23:59に直して投稿する。真っ赤な嘘ではなく、茜色くらいの嘘。人生もコントも、茜色の嘘であふれている。

 

間違いだらけを乗り越えて

 

 

日頃からおしゃれすればいいじゃん、というのはちゃんと生活できる人の主張です。わたしは一刻も長く寝たいので、平日はTシャツとかパーカーみたいなすぐ着れて簡単に洗濯できるやつを適当にローテーションして着ている。なので土日のおしゃれがすっごく楽しみ。今回は久しぶりのお出かけだし、ここ最近一番楽しみにしていたダウ90000の公演の日なので、持ってる中でいちばんお気に入りのちょっといいワンピースとコートを着てきた。

 

 

公演の前に時間があるから、先に「四畳半タイムマシンブルース」を観に行くことにした。アジカンの「サーフ ブンガク カマクラ」を聴きながら新宿のバルト9に向かう。

間違わないようにわざわざ乗り換えの2駅前で読んでいた本を鞄にしまったのに、スマホをいじって気がついたら乗り換え駅を通過していた。自分の不注意に対して対策をしたつもりで全くできていなかった時の落胆にはいつまで経っても慣れることができないし気持ちの切り替えも苦手だけど、そういうミスが多いからこそ培われた行動の切り替えの早さを活かして、すぐに別ルートを検索する。なんとか上映時間に間に合わせて劇場に足を踏み入れると、広いスクリーンにも関わらず大方の座席が埋まっていた。自分と同じものを好きな人たちがこんなにたくさん同じ空間にいる、と思うとそれだけで少し嬉しくなる。四畳半主義者はもれなくアジカンが好きである。そしてもれなく捻くれている。少なくともわたしの身の回りではそうだ。エヌ数の少なさには目を瞑ろう。あの空間のアジカン好きの割合と捻くれ者の割合はどのくらいだったんだろう。現実もTwitterみたいに簡単に匿名のアンケートがとれたらいいのに。

 

映画をみて大満足したあとは「ここにあの人がいたらどんな顔して感想を言うのだろう」と、身の回りの四畳半主義者のことを考えながら映画館を後にする。映画やライブの直後に「楽しかったね」と話せるということがどれだけ素晴らしいことなのか、知らなければ良かったと思うこともある。もちろん終わった後にひとりでゆっくり考えたい作品もあるし基本的には一人映画が多いのだけど、「ホラー映画、大衆映画、思い出映画は誰かと観る方が楽しい」という持論がある。四畳半タイムマシンブルースは思い出映画である。かつて夜な夜な四畳半を求めて木曜深夜のフジテレビに齧り付いていた人間と一緒に観られたら、きっとそれだけでこの何倍も楽しかっただろうなと思ったりした。同時にこういう考え方が狭めてしまうものもあることは自覚していて、同じような青春を過ごした人間とか、同じようなものが好きな人間とか、そういうのばっかり求めてしまうことは度が過ぎると危険ではある。というか、簡単に言うと「交際に至りそうな人だいたい趣味あわねぇ」ってことなんだけどね。向こうも同じことを思っているんだろうな。

 

 

映画館を後にして、隣にある世界堂で額を眺めて、「額って売る時こうやって並べるんだ…」と新たな知識に少しだけ感動しながら外に出たら雨が降っていた。雨が降ることは予報で知っていたので長靴を履いてきていたけど、それなのに家を出る時なぜか「降らないことに賭けよう」と考え傘は持ってきていなかった。さらに濡らすとよくない革の鞄を持っていた。とりあえずコートで鞄を包み込んで、コンビニでビニール傘を買うことにした。

Googleマップでコンビニを探そうとしたら画面に水滴が落ちてきてうざいので、とりあえずバルト9の建物に避難した。一階に雑貨屋さんがあったのでなんとなく傘を探してみたら、奥の店舗にめちゃくちゃ既視感のある傘が並んでいた。

 

記憶は2021年の11月に遡る。旅行先の出雲大社の近くに傘屋さんがあって、そこでさんざん悩んで買ったレモン柄の傘だった。買ったその日にレストランに置き忘れて、翌日回収したのに空港に向かうバスに置き忘れた悲しみの傘だった。

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傘専門店の傘だったので、また出雲に行かない限り手に入らないと思っていた。まさかこんなところで出会えるなんて思ってなかったから、傘を持ってこなくて、いいタイミングで雨が降って、すぐ近くにコンビニがなかったという映画みたいな偶然の重なりに嬉しくなった。このためにわたし、傘持ってこなかったのかも。

たった一年で好みも変わるもので、今回は緑とベージュと赤の傘を買った。とても可愛いデザインだから、憂鬱なはずの雨の日がちょっとだけ楽しみになりそう。

 

 

その後は夕ご飯を食べて、新宿シアタートップスでダウ90000演劇公演「いちおう捨てるけどとっておく」を観劇した。

今回はかなり前の方の席だったのでひとりひとりの表情までよく見えるし、そこにダウ90000がいるってだけで感動だったし、公演自体もめちゃくちゃに面白かった。散々笑ったけどそれだけじゃなくて、その先に問いかけもあって、「終わった後誰かと話したくなる」ってこういう作品のことを言うんだろうなと思った。

 

ついて来てくれた人とは「その先の問いかけ」の話はできなかった。だからわたしと同じくらい性格が捻くれてて感性と特性の似ている小津のような関係の友達にすぐラインをして公演の話をさせてもらった。観てないくせに話したかったことを話せる小津はマジで貴重だと思った。「楽しかったね」だけで良かったはずなのにそれだけじゃ満足できない自分がいて、贅沢で我儘なことはわかっているけども、やっぱり作品を通じて思ったこととか思わなかったこととか、ちゃんと話したかった。でもそれを求めすぎてしまうことは、好きの類似性(今回の場合は受け止め方の共通性)を求めてしまうことは、閉じたコミュニケーションに繋がってしまう。結果、「好き」で武装したすげーいやなやつが出来上がる。敵なんてどこにもいないのに。誰かわたしにエクスペリアームスしてくれよ。

 

世界は開けている。好きになるのに早いも遅いもない。それは正しくもあり間違いでもある。長く蓄積された好きの上に成り立つ会話はやはり格段に面白いのである。だからこそ新しく入ろうとする世界で優しく受け入れてくれる友達や玄人たちには感謝してもしきれないし、自分もそうありたいと願っている。

人と人とのかかわりは違うからこそ面白いことだってたくさんあるのだということを、忘れないように大切にしたい。そうやって好きなものが増えたら最高だし、あなたのことは知ろうとしなきゃわからないのだから。

 

夢になってゆくでしょう

 

 

毎日夢をみている。その日会った人とか、明日会う人とか、会いたい人とか、会えない人とか、会ったこともない人とか、いろんな人がわたしの夢に出てくる。そういうときは幸せな夢であることが多くって、気持ちよく眠れるから寝坊しちゃうこともある。夢に出てきたからというだけの理由で、人を好きになったこともある。もう絶対に会えない人と夢の中で会えたから「これは夢だ」と気がついて、その夢がずっと続くように起きないようにと過ごしたこともある。それでも毎朝必ず7:18に目覚ましの音が夢を終わらせる。抵抗して二度寝する。寝坊する。

 

今日の昼休み、明日が祝日だということに気がついた。ならば多少無理をしても明日はゆっくり眠ることができる。映画を観に行こう。なにを観るか散々迷って、大好きな金子大地という俳優が出演している、ずっと観たかった「手」という映画を観ることにした。

 

映画館には仕事帰りのスーツの人がたくさんいた。みんなひとりで来ていた。座った席の隣の隣には、ひとりで来ているきれいな女の人が座っていた。その人が荷物を置いていた席に人が来て、荷物が行き場を失ってしまった。わたしの荷物をずらして一緒に置けるようにしたら、無言で荷物を置きながらぺこぺこお辞儀されたから、わたしも無言でぺこぺこお辞儀をした。もし彼女と友達になれたらきっと楽しいんだろうなぁなんて考えていたら映画が始まった。

 

性欲で成り立つ関係性について考える。性欲にはどうしても愚かしさが伴ってしまう。好きってなんなんだろう。最愛のものを見つめるまなざしで「かわいい」と呟くあの顔を知っている。「すき」と呟く心の中も知っている。そのときは本当だったとしても、それが性欲からくる感情だったとすれば、何を信じたらいいんだろう。30目前にもなってこんな思春期みたいなことで迷子になっていることがもうとても愚かしいし普通にヤバい。さっさと割り切れよな。

 

心の底から信頼している異性の友達がふたりだけいる。そのうちのひとりから(別に一度もいい感じになったりとかはしてないけど)何かの話の折に「あなたとは絶対に寝ない。寝たら終わりのある関係になってしまうから。あなたとはずっと友達でいたいから、寝ない」と言われたことがある。この人と友達になれてよかったと、心の底から思った。

 

そういう性欲を取り払った関係性を持ちたいと思う反面、この映画のさわ子と森の間にあった「友情を経ない恋愛」も羨ましいと素直に思う。そういうのがめっちゃ楽しいの、知ってるから。だけど恋愛には、裏切りとか、嘘とか、消えていく気持ちとか、友情の中には滅多に起こり得ない怖いことがたくさんある。だからこそ生まれうる酔っ払ったような心地よさと高揚感に憧れながら、それでも欲しいと思うことが怖い。もうどうしたらいいかわからん。

 

たくさんの「知ってる」であふれかえる映画をみて、このままじゃ帰れない帰りたくないと思って宮下公園のベンチでしばらくぼうっとしていた。若者たちが喋ったり喋らなかったりしながら身を寄せ合っている。今年のクリスマスは土日だ、嫌すぎると思いながら重い腰をあげる。これだけごちゃごちゃ言っておいて、寂しいからってだけで恋人が欲しいと思う自分の不安定さや危うさに呆れる。階段をゆっくり降りて、かわいいネオンのもんじゃの看板が目に入る。「もんじゃ」の「じゃ」の電気が切れて「もん」になっていた。その上には「まぁ全部、若気の至りってことで。一瞬で青春。Tinder」って書いてある超でかい広告があった。こんなふうに性欲だけを剥き出しにしてくれるなら、わかりやすいし潔くて怖くない。そんなもの欲しいとは思わないけど。まじで好きってなんなんだよ。

 

 

このまま起きていられたらなぁ

 

 

映画を観るとき、その映画の撮り方とか歴史とか、何を暗示しているのかとか、そういったことも面白いとは思う一方で、やっぱり最終的には自分の感情のうつろいや経験との共鳴によって評価してしまう。

だからわたしにとっては映画のレビューをすることって自分を噛み砕くことでもある。誰かに映画の話をするのは恥ずかしく思うから、「あぁあれ、ヨカッタヨ〜」で終わってしまうことが多い。Filmarksに記録した数日後に「恥ずかしいこと書いてるじゃん!」って思うこともけっこうある。読まれたくないからネタバレでもないのにネタバレフィルターをつけたりする。どうせみんな読んでないでしょと思ってた映画のレビューの話を友達にされたりする。レビューを読んでくれるということ自体に嬉しさはあるけど、恥ずかしいからやめてくれよとも思う。

それでも見える場所で記録に残すってことは、やっぱり誰かに知ってほしいんだと思う。わたしのことを。

 

友達と関わるときは友達としてのわたしが、恋人と関わるときは恋人としてのわたしがいる。家族や職場、Twitterにおいてすらもそうだと思う。きっとどれも完全に自然体なものはなくて、「こう思われたい自分」を大小なりとも取り繕って生活している。だけど映画をみてなにかを思う自分だけは、ちゃんと自分だと思う。

それはきっと、映画からなにか貰うことはあっても、映画とは双方向の対話ができないからだと思う。対話が苦手なのに好きなわたしにとっては取り繕う必要がなくて非常に楽だし、同時に寂しくもある。

 

なんかそんなかんじのことに近い話をした。話をして終わってしまうのはもったいないから、そこから思ったことを書いて残すことにした。

たぶん、明日読み返して「恥ずかしい!」ってなると思う。

 

最近は人と映画の話ができる機会が多くて、とても楽しい。普段話す人は多くが仕事関係の人だから、仕事の話を一切抜きにして話すということが、1ミリも仕事のことを考えなくていいということが、ものすごく救いになる。同時に、やっぱり仕事が大嫌いだと思う。だけどわたしには、敷かれたレールを外れて正しさを捻じ曲げる勇気ときっかけがない。初号機にとけた綾波レイ碇シンジみたいに、わたしのことも誰かが手を掴んで引っ張り出してくれたらいいのにね。その誰かは他者である必要はないのだけれど、自分の力だけでそうするにはまだ色んなものが足りていない。

 

誕生日プレゼントにと、いい匂いのする本をいただいた。10往復の手紙を本にしたものだった。1日1往復ぶん読んでいくことにした。

プレゼントが好き。あげるのも貰うのも好き。選ぶのってすごく難しいけど楽しいし、選んでるときに相手のことを考えたぶんだけさらに相手を好きになる。欲しいと言ったものをくれるのも嬉しいし、わたしが絶対に手に取らないようなものをくれるのも嬉しいし、わたしが気に入りそうなものをくれるのも嬉しい。なんでって、たぶん、なんでもいいってわけじゃなくて、心のこもったプレゼントは相手を尊重することと同じだからだと思う。

本当ははやく寝なくちゃいけないから、いただいた本を最初の一章だけ読んだ。すごく面白いことが書いてあった。このまま朝まで寝ずに全部読んでしまいたい気持ちを抑えて本を閉じる。一気に読むのではなくて、一章一章考えながら読みたいし。

電気を消して、目も閉じる。きっと今日も夢を見る。

おやすみなさい。

 

 

 

 

約束はエンドロールのあとで

 

クリスマスイブをひとりで過ごすより、大晦日をひとりで過ごす方が寂しく感じるのはどうしてだろう。

 

一年の節目を決めたのはわたしたち人間で、それは世界の理でもなんでもないのに、なぜか大晦日だけはすごく特別な一日のように感じる。

多くの人は、帰省して家族と過ごしたり仲の良い友人と炬燵を囲んだりして年を越すのだろう。その特別な一日を、今年はなんでもないいつもの暇な休日のようにひとりで過ごす。

テレビをつけているわけでもないのに否が応でも襲ってくる年末の空気感にあてられて、今まで薄らとしか感じていなかった寂しさたちが影を濃くする。

 

今年は生活が大きく変わった一年だった。

なにかを好きでいることに少し自信を持てるようになり、それを人と共有する楽しさを知ることができた。楽しいものをたくさん教えてもらって、好きなものがたくさん増えた。自分を少しだけ好きになれて、人間らしい生活もできるようになった。そのきっかけとなったふたりと、たくさん一緒の時間を過ごした。結局その片方と付き合って別れたので、いまはもう片方としか付き合いはないのだけど。

 

付き合った人は映画が大好きだったので、よく三人で映画を観ながら鍋をつついたりしたし、ふたりで仕事の後に映画を観に行ったりもした。その人と別れてからはその人がいた場所を埋めようとするようにめちゃくちゃ映画を観た。もともと月に一回程度の一人はしご映画が趣味だったけど、毎週のように映画館に足を運ぶようになった*1。結果的に、今年は映画を一生で一番多く観た年になった。

 

映画館で映画を観ることは、わたしにとっては家で映画を観るのとは全く違う行為だ。

映画を家で観てしまうと集中力が続かない。現に今だってスパイダーマン2を意味もなく一時停止してこのブログを書いている。こんなふうに途切れ途切れに観た映画と映画館で集中して観た映画では、沸き立つ感情も全く違ってしまう。だからFilmarksでは映画館で観た映画にしか点数をつけないことにしている。

映画館に行けば映画とわたし、一対一の世界がある。映画が始まる直前、スクリーンが横に伸びる時間は、現実の世界から境界を越えて映画の世界へ切り替わっていくような感覚になるから好きだ。

そんな中で、観客の笑い声が漏れる映画が好きだ。わたしだけのものだった一対一の映画の世界で、唯一他人を感じることのできる瞬間だからだ。結局わたしは寂しがり屋で、自分と同じ気持ちの誰かが同じ空間に存在していることに安心してしまうのだ。

エンドロールは現実へと戻る準備をする時間だ。満員の映画館だと特に、ぽつりぽつりと劇場を後にする人たちがいて、その光景がだんだんとわたしを現実に近づけていく。映画の内容を思い返し、映画に関わったたくさんの人たちの名前を眺め、少しずつ映画の世界が終わっていくあの時間が嫌いではない。

 

そうこうしているうちに、紅白も終わりゆく年くる年が始まった。今年の楽しかったたくさんの思い出といっしょに、来年も好きなものをちゃんと好きでいられる一年にしたい。

 

一緒にご飯を食べてくれたひと、一緒に映画を観てくれたひと、好きなものの話をしてくれたひと、楽しいことや大切なことを教えてくれたひと、友達や元恋人に、とっても感謝しています。ありがとうね。

 

来年もよろしくお願いします。

 

 

*1:数えてみたら上半期15本、下半期45本だった。増えすぎ。

きみと映画は棚の奥で

 

 

映画がすきで、映画ばかり観ている。

 

記憶だと大学3年生の頃に恋人にふられたのがきっかけで映画を観るようになったはずなのだが、この間掘り起こされた日記によるとその人と付き合う前からTSUTAYAに通って映画をまあまあ観ていたようだ。中学生の頃の遊びの数割は映画が占めていたし、よくよく思い返すと小学生の頃から1人映画をしたりすきな映画のために何度も映画館に足を運んだりしていた。幼稚園の頃に、まだ自由席だった映画館の階段に父と立って並んでいた朧げな記憶だってある。

 

そういうわけで、映画の神様はわたしのことを知らないだろうけど、映画鑑賞の神様はわたしのことがちょっとだけすきだと思う。

 

その神様のおかげか、映画を観た時のことはだいたい覚えている。映画の内容よりその前後の記憶の方がはっきり残っていることすらある。

誰かと観た映画ならなおさらそうだ。

 

例えば、小学生時代の一人映画の後に必ず行ってポイントカードがいっぱいになった砂場という蕎麦屋のきつねうどん。

R15の「スウィーニー・トッド」を観た後にbearという店でプリクラを撮った14歳の冬。

高3、受験生の夏、フードコートで勉強中に友人に勧められてその場で勉強を切り上げて観た「コクリコ坂から」。

大学時代「何者」を観て小走りで帰った夕方になりきらない夕方。

平日にガラガラの劇場で観た「ミックス。」のキスシーンで黄色い悲鳴をあげていた小学生たち。

親友と六本木で観た「JOKER」は本編開始後にぞろぞろと20人くらい人が入ってきてまともにオープニングが見られなかった。

鍋を囲みながら観た「ベイビードライバー」に興奮して、酔った勢いで一緒に観た友人に送りつけたサウンドトラックは今はわたしの家にある。

エヴァンゲリオンシリーズは新旧含めて本当に色々な人と観た。

 

そうだ、思えば誰かとの初めてのキスは、全部がなにかしらの映画を観た後のものだった。映画デートは好きじゃないなんてどの口が言えたもんだかね。ごめんね、神様。

 

 

映画に伴う思い出は音楽と同じで、再視聴の時に懐かしい感覚と一緒にその時の情景が浮かぶ。

会話、表情、立ち位置、空気、気持ちが、ワンカットで頭の中の映画の棚に保存されている。

手前の方にある記憶なら、簡単に手に取って再生できる。

 

それは嬉しいことばかりではなくて、すきだった人がわたしをすきじゃないと気づいた日に観た「街の上で」は、本当だったら好きな映画のはずなのに思い出が邪魔をしてまだ観ることができない。

 

これを書きながらその思い出が以前と比べて少し曖昧になっていたのも感じた。

引っ張り出さない思い出は、いつか棚の後ろの方に埋もれていく。

こんな悲しいもの全て後ろで溶けて輪郭を失くして曖昧に優しいものだけが残ったら良いのに。と思う一方で、しまいこんでおけばいつかふとした拍子に拾い上げて愛しく思えたりするかもしれないと、だから消えないでほしいとも思う。

 

思い出を丁寧に処理していくことが簡単にできないのなら、そういう愛し方だって間違ってはいないのだと思いたい。

いつかふとした拍子に観る「街の上で」が、どうかその時のわたしにとって素敵な映画でありますように。