フープフラフープ

はらの趣味です

このまま起きていられたらなぁ

 

 

映画を観るとき、その映画の撮り方とか歴史とか、何を暗示しているのかとか、そういったことも面白いとは思う一方で、やっぱり最終的には自分の感情のうつろいや経験との共鳴によって評価してしまう。

だからわたしにとっては映画のレビューをすることって自分を噛み砕くことでもある。誰かに映画の話をするのは恥ずかしく思うから、「あぁあれ、ヨカッタヨ〜」で終わってしまうことが多い。Filmarksに記録した数日後に「恥ずかしいこと書いてるじゃん!」って思うこともけっこうある。読まれたくないからネタバレでもないのにネタバレフィルターをつけたりする。どうせみんな読んでないでしょと思ってた映画のレビューの話を友達にされたりする。レビューを読んでくれるということ自体に嬉しさはあるけど、恥ずかしいからやめてくれよとも思う。

それでも見える場所で記録に残すってことは、やっぱり誰かに知ってほしいんだと思う。わたしのことを。

 

友達と関わるときは友達としてのわたしが、恋人と関わるときは恋人としてのわたしがいる。家族や職場、Twitterにおいてすらもそうだと思う。きっとどれも完全に自然体なものはなくて、「こう思われたい自分」を大小なりとも取り繕って生活している。だけど映画をみてなにかを思う自分だけは、ちゃんと自分だと思う。

それはきっと、映画からなにか貰うことはあっても、映画とは双方向の対話ができないからだと思う。対話が苦手なのに好きなわたしにとっては取り繕う必要がなくて非常に楽だし、同時に寂しくもある。

 

なんかそんなかんじのことに近い話をした。話をして終わってしまうのはもったいないから、そこから思ったことを書いて残すことにした。

たぶん、明日読み返して「恥ずかしい!」ってなると思う。

 

最近は人と映画の話ができる機会が多くて、とても楽しい。普段話す人は多くが仕事関係の人だから、仕事の話を一切抜きにして話すということが、1ミリも仕事のことを考えなくていいということが、ものすごく救いになる。同時に、やっぱり仕事が大嫌いだと思う。だけどわたしには、敷かれたレールを外れて正しさを捻じ曲げる勇気ときっかけがない。初号機にとけた綾波レイ碇シンジみたいに、わたしのことも誰かが手を掴んで引っ張り出してくれたらいいのにね。その誰かは他者である必要はないのだけれど、自分の力だけでそうするにはまだ色んなものが足りていない。

 

誕生日プレゼントにと、いい匂いのする本をいただいた。10往復の手紙を本にしたものだった。1日1往復ぶん読んでいくことにした。

プレゼントが好き。あげるのも貰うのも好き。選ぶのってすごく難しいけど楽しいし、選んでるときに相手のことを考えたぶんだけさらに相手を好きになる。欲しいと言ったものをくれるのも嬉しいし、わたしが絶対に手に取らないようなものをくれるのも嬉しいし、わたしが気に入りそうなものをくれるのも嬉しい。なんでって、たぶん、なんでもいいってわけじゃなくて、心のこもったプレゼントは相手を尊重することと同じだからだと思う。

本当ははやく寝なくちゃいけないから、いただいた本を最初の一章だけ読んだ。すごく面白いことが書いてあった。このまま朝まで寝ずに全部読んでしまいたい気持ちを抑えて本を閉じる。一気に読むのではなくて、一章一章考えながら読みたいし。

電気を消して、目も閉じる。きっと今日も夢を見る。

おやすみなさい。