フープフラフープ

はらの趣味です

パズドラ

 

毎日、約12時間死んでいる。

20時くらいにうまれて、死んだように生きて、また8時くらいに死ぬ。

生きているうちの半分は寝ている。

もう半分もだいたい布団の中にいる。

6畳の寝室で命のサイクルが高速でまわっている。

だけど1週間は死ぬほど長い。

日曜日の1日だけ休んだらまた月曜日になるから、日曜日がくるのすら悲しい気持ちになる。

 

仕事終わりに映画に行けるかなとか、田舎でウーバーイーツできないからご飯作らなきゃなとか、そんな甘っちょろい生活じゃなかった。

責任は前より重くなって、仕事量も倍以上に増えて、帰ろうと思った瞬間に仕事が増えてさらなる残業を浴びる。「大丈夫?無理しないでね」は貰えるのに、残業代は貰えない。

勉強することもたくさんあるのに勉強する余裕がない。勉強しておいてね、読んでおいてねと言われたものがどんどん溜まっていく。

プライベートは1ミリも仕事に割きたくないのに、家に帰っても職場から仕事の電話がかかってくる。たまに0時とか、6時とか、意味わかんない時間に電話がくる。

息抜きしようにも田舎だから娯楽はほぼない。畑しかない。遊びたければ電車に往復3時間揺すられるしかない。

 

胃が痛くなる頻度が増えた。根本の白髪が一気に3倍くらいになった。心臓が変な風に動くようになった。

 

このままが続いたら、きっとパズドラしかできなくなる。

だからわたしは、最低限わたしの形を保つために、なにをしたらいいか考えている。

なにをしたらいいんですかね。

 

 

今は仕事の話しないで

 

 

ネクライトーキーのワンマン「ゴーゴートーキーズ!2022 野外音楽堂編」に行ってきた。

数年ぶりの日比谷野音は快晴のライブ日和で、座席一個開けで非常に快適だった。野音のライブは屋外フェスのトリを見てるような気持ちになれて、それだけでもすごく楽しい。

 

ネクライトーキーとは、社会人として生まれてからずっと一緒に育ってきた。

右も左もわからない社会人一年目、入職してすぐにYouTubeの広告から「オシャレ大作戦」のMVに飛んで、一耳惚れして公式サイトから「オシャレ大作戦」のシングルと「タイフー!」のデータを購入した。iPhoneに入れて聴くようになって、最もキツい部署を5ヶ月間ローテートしていた時には毎朝ネクライトーキーを聴きながら準備をして、仕事に慣れてきた頃ファーストアルバムの「ONE!」がリリースされた。リリースツアーの千秋楽で初めてネクライトーキーのライブに行って、まだ荒削りだったけれど売れ始めで一生懸命な彼らの音楽を聴いて、「生きるの辛いけど、次のライブを楽しみにすれば頑張れるな」って思えて、そこからネクライトーキーのツアーは人生の休憩地点みたいになっている。

最初は音も安定せずそんなに上手じゃなかったもっさの歌がライブに行く度にどんどん上手になっていって、バンドとしての一体感や曲の完成度がどんどん高まって、メジャーデビューして、フェスにも出るようになって、タイアップもやって、ライブ中の「いつものやつ」も増えてきて、「許せ!服部」が毎回バージョンアップして。こんなに色々なところが成長しているのに唯一全く成長しないグダグダなもっさのMCも、すごく愛おしい。ずっとわたしと一緒にあった音楽だから、もう好きとか嫌いとかそういうところじゃなくなってきている。

 

有名になってからは歌詞の内容がちょっとだけ変わって少し寂しくもあった。それでも有名になったことで音楽好きの人に名前を出しても「誰?」って言われなくなって、人とネクライトーキーの話ができるようになったのがすごく嬉しい。ライブに一緒に行く友達までできて、恵まれすぎているなと思う。

 

そんなネクライトーキーのわたしにとっては4ヶ月ぶりのライブ。

入場SEを聴いていたらそれだけで嬉しくて泣きそうになって、そんなこと今までなかったから、「よっぽど今の生活が嫌なんだな」って改めて思った。久しぶりに生きてる感じがした。

今日のライブがなかったら、気づかないうちに死んじゃってたかもしれない。ライフポイントが回復できてよかった。もっさが「毎日忙しいのにライブに来てくれてありがとう」って言ってて、「ほんとに毎日忙しいよなぁ」って思ったし、「あなたたちのお陰で生きてるよ」って思った。ありがとう。

 

欲を言うと初期曲をもっとやって欲しいなぁなんて思うんだけど、新しい曲が増えていくのは当たり前で喜ばしいことでもあるし、だからこそ一回一回のライブを大切にできるんだよね。

タイムマシンがあるなら、「ONE!」のリリースツアーにまた行きたいな。やっぱり初めて聴いたフルアルバムが一番好きだし一番思い入れがある。またライブで「ゆうな」が聴きたい。

 

明日は朝6時っていう鬼みたいな時間に出勤なので、本当は余韻に浸って音楽を聴きたいのに、家に着いたら速攻寝なくちゃいけない。

どんなに週末が楽しくたってやっぱり仕事は辛いけれど、通勤の車でネクライトーキーを聴きながらまた頑張ろうね。

 

このブログ読んでくれた人、良かったら「ONE!」聴いてみてね。

 

 

 

 

あの113号室を

 

人生で三度目の引っ越しをした。

職場の人事異動による不服な引っ越しなので、住む場所も住む家も全然好きじゃない。こんなにワクワクしない引っ越しは初めてだ。

前の家が結構気に入っていたから、好きなひとと別れさせられて勝手に決められた気に入らない許婚と結婚させられてるような気分になる。

部屋はかなり広くなったけど、田舎なので家賃は前の家より断然安い。こうやって一人暮らしなのに無駄に広い部屋に住むと、物を取りに行くのに動き回らなきゃいけなくてよくない。築年数もかなりのもので、住み始めた初日の今日既にまあまあな数の不便を見つけている。今のところ新居にはなんの愛着もないので、わたしはまだその不便を愛することができない。部屋の悪口なら延々と言えるのに。

 

部屋は写真の次に思い出が染み付いているものだと思う。

高校まで住んでいた実家の部屋も、大学で初めて一人暮らしをした部屋も、社会人になってから昨日まで住んでいた部屋も、どれももう鮮明には思い出せないけれど、そこにはわたしがいたし、わたしの大切なひとたちがいた。その部屋にいるからこそふとした瞬間に思い出せたものがあった。

例え荷物を全て段ボールに詰めて持ってきても、あの部屋の真ん中で座り心地の悪い座椅子に座って低いちゃぶ台で食べた料理のことは、きっとしばらくしたら全く思い出さなくなってしまう。

そうやって、これから消えていってしまうものたちのことを考えて、少し泣いている。

 

こんなにも感傷的になってしまったのは、「A子さんの恋人」という漫画を読んだからだと思う。

この漫画では、引っ越しというものが物語と登場人物たちの気持ちに大きな影響を与える。思い出が消えてしまうのが嫌で引っ越さない登場人物や、友達の引っ越しを寂しく思って駄々をこねる描写も出てきて、変に共感してしまった。特定の登場人物が、というわけではなく、いろいろな場所、いろいろな登場人物の中に少しずつわたしがいた。

漫画を全て読み終わったら一年前の自分の選択をちゃんと肯定してあげることができるようになっていた。今まで定期的に後悔しては理由をみつけて自分を納得させてきたけど、この漫画がちゃんと答えだったし、放り出されて宙に浮いていた元恋人への気持ちがストンと箱に仕舞われたかんじがした。引っ越して消えてしまう思い出も、それはそれで悪いことではないのだと、少し思うことができた。

今このタイミングでこの漫画に出会えて本当によかったと思う。

 

漫画のことを考えながら、知らない天井の下で、紐のついた蛍光灯を眺めている。

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前の家から持ってきたリモコンタイプの蛍光灯に変えても良かったけれど、この家の中でこの蛍光灯が唯一少しだけ好きになれそうな不便だったから、そのままにしておくことにした。

 

家と思い出に、さようなら。

 

 

きみと雷を見た午後

 

こんな日常が一体何になるんだろう、と思いながら過ごしている。

月曜日から土曜日まで起きたらすぐ仕事に行き、夕方まで仕事をして、ご飯を買って帰って食べて、食べながら動画を観て、ポケモンレジェンズアルセウスをやって、スマホをいじっていると寝る時間になる。仕事のない日は、映画を観に行くか家でなにもしないかのどちらかしかない。たまに、友達と遊ぶ。

 

それが全く楽しくないわけじゃない。でも、こんな風に過ごして一年後五年後十年後に残っているものなんてきっと何もない。

こんなにも意味のない毎日を過ごして、今はよくても何もない未来のわたしは大丈夫なんだろうか。きっと大丈夫じゃない。なんなら今もう既に大丈夫じゃない。

 

毎日に意味がないのなら、こんな辛い思いまでして働く理由もなくなってしまう。

いや、そりゃあまあ、生きるためには仕事は必要だし、餓死もホームレスも嫌だけど、生きるのを辞められるボタンがあるのなら押させてほしいなって思ってるよ。死ぬボタンじゃなくてね。死ぬのは嫌だから。

 

恋人でもいたら違うのかもしれないと思う。

一年前の恋人とは最初から結婚はしないだろうなと思って付き合っていたけれど、好きだったし一緒にいたら楽しかった。あの日々が何も残らないものだとは思えない。

例えその人との未来が途切れたとしても、そばで日常的に生活を共有できる人がいたのなら、何もしなくたってそれだけで人生の歴史のひとつになっている。気がする。

結婚って、きっと、何もない人が手っ取り早くわかりやすく何かを残した気になれる手段なのかもしれない。結婚した人のほとんどはそうじゃないと思うけど、一部の人にとっては。

今のわたしの結婚や恋愛に対するモチベーションはそういうクソみたいな方向性のものなので、婚活はなんにもできていないし、アプリもまた1週間で辞めてしまった。

わたしのことをまぁまぁ知っているまぁまぁタイプな人間と、まぁまぁな距離感で付き合ってる状態に明日からなれたらいいのにと思う。

でも本当は、好きだと思える人間と、恋とか愛とかじゃなくて、何も考えずただ一緒にいられたらいいのにと思う。

 

昨日観た「愛なのに」という映画のエンドロールで流れた「低い飛行機」という曲が、とても刺さっている。

"一生かと問われればためらう心を斬新な瞳でどこまでも連れ去ってほしいこんなにも好きよ"

今でもたまに、きみと人工衛星を探した肌寒い夜を思い出すよ。

 

 

 

こんな時もあったなあ〜

 

昨日、「春原さんのうた」と「リング・ワンダリング」を観るために、久しぶりに下北沢と渋谷のミニシアターへ足を運んだ。

最近はシネコンばかりだったから、1本目の「春原さんのうた」が始まってすぐに、ミニシアターの音響のかんじとか、狭めの部屋とか、ミニシアター系映画特有の空気感とかに触れて、思い出が全身を駆け巡る感覚があってみぞみぞした。余白の多い映画で、そのせいか上映中も映画と関係なしに思い出と私生活のことをたくさん考えてしまった。

 

下北沢は思い出の場所だ。

初めて下北沢に行ったのはまだ1stアルバムしか出していなかった頃のTHE PINBALLSの3マンライブだった。物販のところで、ピンクのコンデジでメンバーの皆さんと写真を撮ってもらった。大学時代後半は髪を青とか緑とか変な色に染めに通って、帰りは必ず茄子おやじのカレーに舌鼓を打った。社会人になって美容院が別の場所に変わってからは、デートなんかでたまに来て映画を観たり古着屋やカフェを巡ったりした。

その間に駅の工事が進み、景色は大幅に色を変え、今の下北沢駅に伴う思い出はデートの思い出のみとなった。待ち合わせた場所、喫煙所の近くの道、階段のポスター、トリウッド、通り沿いの古着屋、無駄に歩いた住宅街、街の上での主人公のバイト先、どこで何の会話をしたかすらまぁまぁ思い出せてしまう無駄なエピソード記憶力を呪う。だけど、会話内容と繋がなかった手だけは鮮明に思い出せるのに、あの人がどんな顔や表情をしていたのかはあまり思い出せなくなってしまった。それだけ時間が経ったということなのかもしれないし、わたしは人の顔を見るのが苦手だから、ただ単に見ていなかっただけなのかもしれない。どちらにせよ辛かったあの時期に戻りたいとは思えないけれど、こうして美化された思い出たちがわたしを感傷に浸らせてくるので、自分では立ち直ったつもりでも意外と引きずったりしているのかもしれない。

恋愛は人生のメインではないし友達や趣味の時間も同じくらい大切にしたいと思っているのに、終わった恋愛にこんなふうに振り回されているのも滑稽だね。以前もそうだったから、もはや相手がどうこうとかではなく実はわたしは恋愛体質ってやつなのかもしれないな。嫌だな。

 

一通り思い出を巡った後は、将来に対する不安と今の生活に対する不満が湧いた。常日頃からまぁまぁ湧いてはいるけれど、なぜかこの映画中はいつもより余計に湧いていた。

今の仕事が辛いことばかりで、この仕事に就いてから夜眠れなくなってクマが取れなくなりたまに睡眠薬を使うようになった。体重が減ってみんなから痩せたねと言われるようになった。毎朝自分と職場を呪いながら家のドアを開けた。

本当は今すぐにでも辞めたいけれど上手に角を立てずに辞めないと同じ業界で働きにくくなる可能性が高くて、社会性ゼロのわたしにはその方法が思いつかない。

幸い4月から一年間別の事業所に出向となるけれど、その後はまたあの地獄に戻らなきゃいけない。辞めるための準備はしようとしているけれど、具体的なことが決まっているわけでは全くない。

それどころか次の引っ越しの準備さえままならないくらいで、「引っ越し業者決めなきゃ」とか、「ガスと水道解約しなきゃ」とか、「確定申告しなきゃ」とか、考えただけで最悪な気持ちになる。締め切りを守ったり、遠くの予定に対して準備をしたり、そういったことが苦手で、やらなきゃいけないのはわかっていてもどうしてもできない。できない自分も嫌いだし、迫ってくる締め切りに焦燥感だけが募る。

どうしてこんなに「生活」をするのが難しいんだろう。部屋も汚いし、最近は自炊もしてなくて流しに洗ってない食器がそのままあるし、洗濯物がソファで山麓を作っている。部屋を見回すだけで嫌になる。汚い部屋にいるとソウルジェムという名の自己肯定感がかなり濁ってしまうよね。こんなんで他人と結婚してうまくやれる気もしないし、これから先30〜50年くらいまっとうに生きていける気もしない。そうだ、最近「ゴーストバスターズ/アフターライフ」を観て、漠然と「子供欲しいなぁ」と思ったのを思い出した。大人になれてないのに子供が欲しいとは思い上がりにも程がある。そういう仕事、結婚、出産とかの将来の不安と、今の生活が成り立っていない不満が、映画中に頭の中をぐるぐるぐるぐる回ってしまって死ぬかと思った。辛かった。

 

みんなが当たり前にちゃんとできることを、わたしはちゃんとできない。だからこそわたしにできて誰かにできないことを理解できるようにならなきゃだと思うのに、それすら上手にできない。

 

ここから明るい結論に持っていくのはどう考えても無理なので、全然まとまらないけど今日はこのへんで筆を置いてしまうことにする。

もしこの記事を読んだ人がいたのなら、共感して暗い気持ちにはならないでほしい。「こんな奴もいるなら頑張れるかも」と(悲しいからわたしには言わないで欲しいけど)思って誰かの気が楽になればいいなと思う。

そんでいつかこれを読み返すわたしが、「こんな時もあったなあ〜」とニタニタ笑っていることを祈っている。

 

 

王様ランキングとレッテルの話

 

先日、マッチングアプリの達人みたいな友人にマッチングアプリの使い方を教わった。達人は、会う会わないを別として相手のおすすめの映画を必ず聞くようにしているらしい。

達人は映画好きなので、たまにおすすめを教え合って互いにフィルマークスに記録している。最近教わったおすすめが映画じゃないけど「王様ランキング」で、彼はこのアニメをアプリでマッチした女の子から教えてもらったという。

 

早速ゾンプラ*1で王様ランキングを見始めたのだけど、これが本当に面白くてびっくりした。巷の評判とフィルマークスの評価はやはり正しくて、1日1話くらいで観ようと思っていたのに気付いたら1日で5話まで一気見してしまった。

簡単に言うと、耳が聞こえず言葉が話せない非力な王子が強い王様を目指して旅をする話で、ほんわか可愛らしい絵柄とは裏腹にまぁまぁ血が出るし、えげつない話でわりとメンタルに来る。それでも続きをみたいと思わせるのは、キャラクターひとりひとりに好感が持てるということが大きいなと思う。心ない人間も出てくるけど、多くの人は優しくて強い信念を持っていて、それぞれの信念を守っているが故に悲しい出来事が起きてしまうのだ。その辛さと優しさのバランスが絶妙すぎる。

 

9話までしか観ていないけれど、ここからネタバレも含めて書こうと思う。まだ観てないのなら、わたしと同じ気持ちになって欲しいので読まずにとりあえず3話まで観てきてほしい。

 

人間の多面性を、わたしはよく忘れてしまう。

この人はこういう人だとレッテルを貼り、それが自分の意にそぐわなければ距離を取り、こういう人と決めつけて扱ってしまうところがある。

フィクションの世界はレッテルの連続だ。多くの作品でわたしたちは神様視点で事象を俯瞰し、登場人物それぞれにレッテルを貼りながら作品を鑑賞する。「実はこういう人でした」というどんでん返しでレッテルがひっくり返ることもあるけれど、多くの場合それは作品のオチや転換に使われる重要な場面で判明するし、黒幕的なキャラクターにのみ行われる。そうしないとキャラクター性がぶれて見ずらい作品となってしまうからだ。

王様ランキングは、そのレッテルの貼り替えがすごく上手な作品だと思う。貼り替えというか、もはやレッテルを貼ることそのものが間違っていたのだと思い知らされる。人間は多面的な生き物なのだと思い出させてくれる。

 

この作品はキャラクターの特徴がそのまま名前になっていることが多い。影の一族「カゲ」、顔にホクロがある「ホクロ」なんてそのまんますぎる名前もあるくらいだ*2。初登場時には簡単な説明と名前がテロップに出てくるため、まずそこでわたしたちはキャラクターにレッテルを貼ってしまう。

キャラクターデザインもシンプルだが一目でキャラクター性を的確に想像させるものとなっている。顔色の悪いへび使いやプライドの高そうな王妃と第二王子など、その見た目もレッテル貼りに一役を買っている。

もちろん彼らはわたしたちが想像した通りの言動をするため、登場回でキャラクター像を固定させ、貼られたレッテルを強固なものにする。

それを突如目の前で丁寧に剥がしビリビリに破いていくアニメが「王様ランキング」だ。

 

3話では、ヒリングという主人公の継母のレッテルが剥がされる。鼻が高くジト目でいかにもプライドが高そうな王妃で、1話では主人公に心ない言葉を浴びせる「嫌な継母」のテンプレートのような人間に描かれていた。それが実は主人公のことを深く愛していて、不器用が故に素直に愛を表現できないだけの人だと明かされ、わたしは一気にこのキャラクターが大好きになってしまった。

それぞれのキャラクターの信念の貫き方や愛する人の守り方を回想を交えて丁寧に描くことで、孤独だと思っていた主人公は実はまわりのみんなから愛されていることが徐々にわかっていく。回想の入るタイミングがものすごく絶妙で、その度に無意識に貼ってしまっていたレッテルに気づいてはっとする。こうしたプロセスをクライマックスにもってくるのではなく、数話に一度くらいの頻度でサラッとやってのける脚本が素晴らしい。9話で襲いくるモンスターですら家族と静かに暮らすシーンが挟まれた時には、どんだけ一貫して多面性見せてくるんだよと感心した。

 

現実でもフィクションでも人間が多面的だということは実は当たり前のことで、正義を叫び続けるキャラが画面外で鼻くそをその辺に捨てているかもしれないし、嫌味なキャラが家ではすごく優しいお父さんかもしれない。でも物語の都合上、それは一切描かれない。現実でもわたしたちが見ている相手はわたしたちに見せている相手でしかなくて、上司は上司としての姿しか知らないし、友達は友達としての姿しか知らないし、親は親としての姿しか知らない。逆に言えば、わたしだって上司にとっては部下だし、友達にとっては友達だし、親にとっては子供なのだ。ある程度のレッテルを介して、わたしたちは人と関わっている。だからその人の知らなかった一面を知って怖くなってしまうことがある。こうしてまた新しいレッテルが貼られる。

それで何回か失敗もしてきた。今思うと損していることだってあったと思う。もっとあの子と仲良くなる努力をすればよかった、とかね。

レッテルを貼らずに誰かと関わるのって理解する努力が伴ってけっこう労力のいることだと思うから全員には無理だけど、少なくとも本当に好きな人たちのことはその人をその人として知りたいし、知らない一面も受け入れられる人でありたい。

他人に対してだけじゃなく自分にも「わたしはこういう人だから」と貼っていたレッテルを剥がして生きられたら、もっと生きやすくなれるのかなとも思う。

 

王様ランキングに話が戻るけど、脚本だけじゃなくて、作画も綺麗で見やすい(ごはんが美味しそう!)し、声優陣の演技が素晴らしい。あとわたしがアニメを見まくっていた高校時代に中学生役とかやってたひとたちがお母さん役とかやってて時の流れにびびる。

オープニングとエンディングもめちゃくちゃアニメにマッチしてて*3、どこにも手を抜かずに最高の作品にしようって気概が感じられる。オープニングの「BOY」を初めて聴いた時は、聴き心地が良すぎて巻き戻して何回か聴いてしまった。

冒頭の「美しさで」の半音気持ち良すぎじゃない???サビとそれ以外でバッキングの刻み方が変わって雰囲気がガラッと変わるの、まさにこのアニメの多面性を表してるみたいで好き。

MVもジャケットも良い。松本大洋鉄コン筋クリートを思い出したのわたしだけじゃないよね。

 

というわけで、この先も観るのがすごく楽しみ。はやく全部観たい。

達人とマッチした女の子、王様ランキングを布教してくれてありがとう。

 

 

*1:ゾンプラっていう人間食べ食べカエルさんの言い方すき

*2:後で気づいたけどダイダってもしかして代打ってこと…?エグ、って思って調べたらダイダとボッジでダイダラボッチ説があるみたい

*3:King Gnuの常田さんが呪術廻戦0のインタビューで「アニメの曲をやる時は作品の奴隷になってる」って言ってたの思い出した

言いわけとホコリに埋もれていく

 

わたしの部屋はめちゃくちゃ汚い。

一番酷い時は引っ越しの未開封段ボールが見えるところに積まれていて、床はほとんど見えず、ソファどころかベッドにまで服が積まれており、床に漫画が積まれ、机の上は食事も安定してできず、飲みかけのペットボトルが落ちていて、クローゼットから服やバッグが雪崩れ出ていた。

その後、定期的に人が来るようになったため物凄く頑張って断捨離、大掃除を経て、一旦は少し物が多いくらいの人間の部屋になった。

そして定期的な来訪がなくなってしまったいま、わたしの部屋は崩壊の危機を迎えようとしている。さすがに流しでカビたカレーのタッパーは捨てられたけど、計量スプーンが道連れにされてしまった。かわいそう。

 

最近はまた部屋を綺麗にしたいと毎日考えてはいるのだけど、毎日気づいたら夜中の1時くらいになってしまっている。もうすぐ引っ越しがあるからこのままだとかなりマズいし、汚い部屋は精神をけっこうな強さで汚染してくる。部屋が汚いってだけで生活の整いが一気にだめになってしまう。不思議。

昨日もぽやっとしてたら寝る時間になってしまって、片付けられなかった罪悪感を抱え地獄になってる台所を華麗にスルーして布団に潜り込んだら、突然わたしの中の綾波レイが「はらちゃんが、もう部屋を汚さなくて、いいようにする!」とか言い出した。世界の理のようなものの断片が急に頭に流れ込んでくる時がたまにあって、それを人類はひらめきと呼ぶのだけど、わたしの頭でもそれが発生したようなので、記録したくてこれを書き始めた。

 

わたしの部屋が汚い一番の原因はおそらく「出しっぱなし」にしてしまうことで、幼少期から繰り返し言われ今でも鮮明に脳内再生できる母の言葉は「出した人がしまう」だ。わたしは出した人にはなれてもしまう人にはなれない女児だった。

ではどうして出しっぱなしにしてしまうのか。それは間違いなく「しまうのが面倒臭い」からだと思う。ウインクするだけで物がしまわれるのなら、何千回だってウインクする覚悟はできている。だけどそんな魔法は知る限りでは存在しないから、わたしたちは自分の手や足を使って何段階かのプロセスを経て物を片付けなければいけない。

であれば、しまうのを簡単にして出しっぱなしを出来る限り減らしていくことで部屋を汚さずに済むようになるんじゃないかなって。部屋が綺麗なひとたちは「当たり前じゃろ」と思ったかもしれないけど、それがわたしにとって当たり前だったら部屋は汚くならないんだからね。

 

思い返せば大掃除で部屋を一度綺麗にしたとてその後片付けやすい部屋では全くなかったと思う。片付けるために入れ物の前にあるものをどかさなきゃいけなかったり、入れ物自体が物でいっぱいで整理が必要だったり、入れ物が取りにくい場所にあったり、踏む段階数が多いのだ。

理由はおそらく物の多さと収納の少なさ、不便さにあるが、引っ越し目前の今の部屋にこれ以上収納を置くのはなかなか現実的ではない。そうなると物を減らすしかない。やはり断捨離が必要らしいという結論に至る。

 

だが困ったことに、わたしの部屋は思い出でできている。わたしの脳は物や写真、音楽や映画と思い出を強く結びつけて認識しており、それらを見る度に聴く度にその時の映像を鮮明に思い出すことができる代わりに、物を媒介とせずに何かを思い出すのがすごく苦手なのだ。物を捨てることは思い出を捨てることに等しい。

もちろん印象深い思い出は物なんかなくたって思い出せるけれど、ふと思い出して懐かしく思えるのってそういう強い記憶じゃなくて物がないと絶対思い出せないくらいの超どうでもいい思い出だったりする。

あれ、そう思ったら、物を捨てる基準がかなり明確化された気がする。見ても微塵も思い出せないものを捨てればいいんだ。

手始めに、目の前にあったピンクのフェイシャルローラーを捨てた。こいつにはなんの思い出もねえ。さよならだ。

頑張って捨てるぞ特に服。でもね今日は仕事が疲れたので、またこんど捨てるよ待っててね。

 

そういえば、火曜日にCAT ATE HOTDOGSというめちゃかっこよーなバンドのライブに行ったのだけど、そこで知ってすきになった3markets[]っていうバンドのOBEYAって歌がめちゃくちゃわたしの曲だったので連日朝の準備中に聴いてる。

おすすめです。めちゃすき。