フープフラフープ

はらの趣味です

大好きなCDをかけてあの頃にかえろう

 

ブログ書きて〜って思ってたし書くこともあったのに、書くのがめんどくさすぎて全然書いてなかった。やりたいとめんどくさいは両立する。しかもけっこう比例する。楽しいことはめんどくさいよね。

(「少女は卒業しない」についてざっくりとしたネタバレがあります)

 

今日は仕事を定時で終わらせて映画を観よう!って決めてたのに、結局1時間サービス残業して、急いでタイムカードを押して(なんでタイムカードあんのに残業代でないん)(なぜなら、みなし残業45時間だから!)、上映開始時刻の5分前に映画館に到着した。急いでお手洗いを済ませて、チケットを購入して、売店でホットドッグのドリンクセットとクレープアイスのいちご味を買う。仕事帰りの一本には、いつもこのメニューがお供してくれる。そしていつも売店の横でストローを刺して、ホットドッグにケチャップをかけて、ゴミをちゃんと分別して捨ててスクリーンへ向かう。普段の分別はちょっと適当な時もあるけど、こうやって「紙類」「プラごみ」とデカデカ書かれると、ちゃんとせざるを得ない。好きな場所で悪いことしてる気分になりたくないから。

7番スクリーンの入り口で、これから観る映画のポスターを撮影する。終わった後、いつもこの写真をTwitterにアップロードしている。ほんとうはインターネットでポスターの画像を保存したほうが見栄えがいいんだろうけど、写真が下手くそなのも含めて、見返したときに思い出すものが多い方がいいから。

座席は後ろから2列目の端っこ。学生の頃は前方が好きだったけれど、ここ数年は後ろの方で観るのがマイブーム。わたしの後ろに誰もいなかったから、上映中何度か振り返って映写室のガラス窓を眺めた。そこにうつる映画の光を見ると、なぜか嬉しくなる。嬉しい、は違うかも。当てはまる言葉が見つからない。坂元裕二の言葉を借りるなら、きっとわたしはみぞみぞしている。

「少女は卒業しない」は、取り壊しの決まった山梨県のとある高校の卒業式前日から当日までを描いた青春群像劇だった。原作者の朝井リョウは「桐島、部活やめるってよ」や「何者」のように「みんな持ってるけど持ってないふりをする汚い感情や意識」を描いた作品のイメージが強いけれど、この映画はそういった「ワー!やめて!」ってなるような要素はほとんど排除されていた。淡い片思いや進学に伴う関係性の変化、大きな喪失体験との関わりを、実感の湧かないライフステージの切り替わりを通して非常に爽やかに描いた作品になっていた。「終わってほしくない」という、人生の中に何度もあらわれたことのある馴染みの感情を見つめていると、この子たちはきっとこれから先にたくさんの大切な「終わらないで」があるのだということをとても羨ましく感じる。その尊さがわかっていても、いつだって「終わらないで」と気づくのは終わりのしっぽが見えてきた時だ。わたし自身の「終わらないで」の思い出と、気づかないうちに大切になっているのであろうこれから過ごすいつかの時間に思いを馳せる。

ベージュのカーディガンに丸メガネの藤原季節がめちゃくちゃよくて、あんな先生いたら絶対に一生片思いする自信がある。すらりと伸びるスラックスをみて、スタイルいいなあ一回でいいから近くに立ってみたいな、と思った。くそやろうの役も情けない役も、こういうふうに素敵な役もなんでもこなす彼には「季節」という名前がぴったりだ。

 

映画が終わり、出入り口のところにある今後の上映予定表をみて、「これが上映される頃にはもうこの映画館に来ることはないんだろうな」と考えたらすごく寂しくなった。どうやらわたしは、いつのまにかこの映画館をかなり好きになっていたらしい。こんなところでもまた、「終わらないで」が顔をのぞかせている。

車に戻ってからしばらく、映画館の外にいる警備員のおじさんの姿をぼうっと眺めていたら、高校3年生のときに片思いしていた別の高校の友達のことを思い出して、帰り道にその人が好きだった「Peace」を車で流した。笑うとあんぱんみたいでブサイクだったけれど、バスケ部で背が高くて、好きなもののセンスがよくて、彼を見上げながら話すとくしゃくしゃのあんぱんがオシャレに輝いて見えた。今は結婚して二児の父になった彼のインスタグラムで、あんぱんみたいに笑うかわいい子供達の顔をよく見かける。

このツアーのときに最前から2列目だったのに左隣の彼女絶対守るマンの肘が常に脇にヒットしていて最悪だったことを思い出した。ライブで彼女を守るな、音楽を聴け。

692円

 

最寄駅の改札にかざしたiPhoneにうつる692円という文字が東京との距離を物語る。近い気もするし、遠い気もする。今日の運賃は、往復で1800円くらい。映画一本分くらいの値段と、短めの映画二本分くらいの時間がかかる。

 

友達の「あなたにとって、映画館で映画を観ることは特別なことなんでしょう?」という言葉に背中を押されて、新文芸坐で「パルプ・フィクション」を観てきた夜に、これを書いている。正直当日の14時くらいまで「めんどくせ〜」がちょっと勝っていたけれど、Twitterで映画の冒頭シーンをみていたらすごくかっこよくて、それが最後のひと押しになってインターネットでチケットを予約した。日曜日に買おうと思っていたスニーカーを買ってしまうために早めに家を出て、電車を乗り継いで池袋に向かう。それなりにガラガラなのに、端に座るわたしに背を向けて半分覆い被さるように立っている女の人にいやだなあと思い席を立った。譲れということなのかと思ったのに全く座る気配がなかったから、なんなのよと思いながら電車を降りてPARCOに向かう。目当ての靴屋で目当てのスニーカーを試着したら、思っていたよりずっとかわいくてすぐに購入した。自分にぴたりとハマるなにかと出会えた時の高揚感はすごく気持ちが良い。わたしはこの靴を、今後長い間大切に履き続けることになるだろう。

PARCOのレストラン街の抹茶のお店で夕ご飯を食べて、新文芸坐へと向かう。ここへ来るのは3、4年前に昔の恋人と「ハッピーデスデイ」「ハッピーデスデイ2U」を観にきた時以来だ。その日は東京コミコンの日で、コミコンから映画をハシゴしたのを覚えている。別れた相手を映画に誘った自分の気持ちは、あまり思い出せない。なにがしたかったんだろう。

エレベーターに乗り劇場に到着すると、ロビーは人でごった返していた。もしかしたらTwitterのタイムラインにいる人がこの場所にいるかもしれないということに、インターネットと現実の境目の曖昧さを感じながら、チケットを提示して座席へと向かう。5分の予告の後に、「パルプ・フィクション」が始まる。

どハマりしたかと言われるとそんなことはないけれど、映画館で観ることができてよかったと心の底から思う。この映画を褒める人の気持ちも貶す人の気持ちも両方よくわかる。観終わってすぐはそんなに気持ちが湧き立たなかったけど、四半日経った今、映画の好きなシーンがたくさん思い浮かぶ。この映画のこと、もしかしたら好きなのかもしれない。よくわからない。ふるったかふるわないかで言うと、ちょっとふるっている。

 

映画を評することは難しい。「良かった」「悪かった」「面白かった」「つまらなかった」「好きだった」「嫌いだった」「すごかった」「しょぼかった」、それってひとつの要素でしかなくて、「良い映画だけど好きじゃない」とか、「面白かったけどクソ映画」とか、そういうのを総合した言葉として「ふるった」「ふるわなかった」という表現をわたしは使う。漢字は「猛威を奮う」の「ふるう」で、映画がわたしに対して投げかけたなにかが、わたしに影響を及ぼしている、みたいなイメージ。便利な言葉なので、よかったら使ってみてね。

 

 

おやすみ

 

朝、職場の中を移動しながら、「今の仕事は面倒くさいからやりたくないみたいな消極的な嫌さじゃなくて仕事そのものが大きなストレスだからやりたくないんだなぁ」と思えて、せっかく売店にオムライスのおむすびがあったのに全然嬉しくなれなかった。嬉しくないけど一応買って、一応食べたらそんなにおいしくなかった。仕事はまぁまぁ順調に片付いて、定時に終わった。

仕事をしていて「信頼しています」という言葉に「すみません」と返してしまった。謙遜のすみませんではなく、謝罪のすみませんだった。わたしみたいな仕事を好きだと思ってない上に勤勉とは真逆で、能力もない中ギリギリやれている(やれていないときもある)かんじのひとが担当をしてしまってすみません。その信頼はほんとうに信頼なのか、わたしには自信がありません。それを言葉通りに受け取るとして、期待というものが持つ重さが、傲慢にも、わたしはとても苦手だ。誰に対しても、とても失礼な考え方だ。がっかりされることが怖いと、責任を取りたくないと、そういうことばかり考えている。

 

ひじがかゆい。かぶれて、乾燥して、かさぶたになっている。友達へのラインの返事が24時間以上あいてしまう。ゴミが捨てられない。家賃が払えない。

大型ショッピングモールで夕ご飯を食べるレストランを選んでいたときに、自然と「メニューを選ぶのに頭使いたくない」「食べる順番に頭使いたくない」「食べるときにあんまり頑張りたくない(口を大きくあけたり、箸を複雑に使うものはだめ)」を基準に夕飯のお店を選んだ。小説を持参していたため待ち時間で読もうと思っていたけれど、なんだかやる気がしなくて、放置してぽちぽちレベルだけ上げるスライムのスマホゲームをぼーっと眺めていた。ご飯はおいしいもののはずなのに、あんまりおいしくなかった。ぼけっとスマホをみながら、電池がなくなっちゃうけど、なんだかゲームをやめられないな、と思ったところで、これは心に元気のない証拠だ!と思った。そう思ったら、ここ最近あった生活が崩れていくかんじが、なんだか辻褄の合うかんじがして、ほっとした。

 

雪が降ると言われていたのに、大丈夫でしょと高を括って車で遠くのショッピングモールに赴いた。ちょうど父親と連絡をとっていたのでそのことを伝えたら、「危ないから帰った方がいいよ、雪が一気に積もることもあるから」と返事が来た。既にモールに着いていたので、ご飯を食べて、食べたあと映画館のところに行って、開場時間までどうしようか迷った挙句に、「食後で眠くて運転したくない」「今日映画をみようと思い立ったのは今日みなきゃいけないものだからだ、たぶん。だからたぶん雪は降らない」とかいろいろ考えているうちにチケットを買っていて、「あつい胸さわぎ」という映画を観てきた。

 

いろんな人がでてきて、それぞれがなにかを抱えていたり、もしくはなにかが欠けて(欠けようとしていることに悩んで)いたりする。それは捨てたり埋めたりすることはできないもので、だけどもみんな、たしかにだれかを無意識に或いは意識的に愛していて、てのひらを介してその愛が体に残る。誰かが「どうにかしたい」と思っている部分のそのままを肯定する映画だった。わたしだけが幸せではないのだと、そういう疎外感を抱えた記憶と、てのひらから貰った愛の感覚が、エンドロールといっしょに流れていく。

目当ての半分だった前田敦子がやっぱりとてもよかった。「町田くんの世界」「くれなずめ」「もっと超越した所へ。」「そばかす」「そして僕は途方に暮れる」と、わたしが観た映画に出てくる前田敦子はどうしてこうも最高に魅力的なんだろう。その中でもベスト敦子と言ってもいいくらい、今日のあっちゃんも素敵だった。素敵な前田敦子のでてくる作品があれば、おしえてください…

 

映画が終わって、スマホのバッテリーの残りを確認したら1%だった。エンドロールの間に少しだけ思い浮かべた人から1年ぶりにラインがきて、すごくびっくりした。すぐに返事をして、車に乗って、カーステレオをつけたらBUMP OF CHICKENの「orbital period」が流れた。雪は降っていなかったし、積もってもいなかった。なにかの予感に思い立って遠くまで車を走らせて、映画をみたらそれは自分にとってとくべつなもので、降らなかった雪と、かつてとくべつだった、今はとくべつじゃない誰かからきた言葉の羅列に、スマホの上で共有した少しの時間に、わたしからのとくべつと少しの愛をこめて。

声と嫌いと年のはじまり

 

去年の夏、みてる映画がめちゃくちゃ被ってるのにすきな映画がほとんど被らない友達ができた。表現を捉えて映画の可能性を愛するその人と、感覚で捉えて映画の中の思い出を愛するわたしで、角度の違う目線のレビューや正反対の評価が多くて楽しい(可能性愛してなかったらごめんな)。

その人から誘ってもらって、いっしょに街の声を集めた本を作ることになりました。たくさんの声を集めたくて、アンケートを開設しました。

https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLScOO4d9ZTBGqUgjhRmMt9Efg7BmYC1m5MDom5Nw2zn1qf9Big/viewform

フォロワーさんも、名前だけ知ってる人も、知らない誰かも、回答をありがとうございます。もらった言葉、嬉しくて何回も読んでいます。しばらく募集しているので、よかったら答えてもらえると嬉しいです。

 

話は戻り、そんなかんじで去年の下半期は「嫌い(好きじゃない)」の扱いを考える半年になったと思う。「好き」よりも断然「嫌い」の方がだれかを傷つける可能性が高くて難しい言葉だけど、なにかをみて湧いた「嫌い」を全て押し殺すのは違うのではないかと思っている。それは人になにかされて思う「嫌だ」や生きていて感じる「これは違う」においても。それをどこまで表出するのか、だれにどこで語るのか、その塩梅が難しい。製作者やそれを好きな誰かの気分を害することは本意ではないので、簡単にエゴサーチができるTwitterではマイナスの感想を書きにくい(Twitterに正直な感想を書くことを悪く思っているわけではなく、わたしは人の気持ちが汲み取れず無闇に人を傷つけるので、そういったことがないように)。だから詳しいことはfilmarksや読書メーターといったレビューと記録のための媒体の中で書くようにしている。「嫌い」が先行すると悪意の滲んだ悪口になってしまう可能性があるため、できるだけ理由を言語化して気持ちが全面に出すぎないように意識するようにはなった。けれど、そもそも「嫌い」は生理的な気持ちなのでやっぱりどこか感情的な表現になってしまうことが多く、それは自分の課題だと思う。

わたしが年間ベストに入るなぁと思った映画にかなり低い評価をつけた人がいた。その人の言葉が好きだから、その理由にポジティブな興味が湧いた。自分と逆の感覚を持つ人の頭の中を知りたい。作品と真摯に向き合う人の低評価レビューは、たとえそれが自分の愛する作品だったとしても嫌な気持ちがしない。わたしもそうありたい。万人に対しては難しいかもしれないけれど、少なくとも親しい人が読んで不快にならない言葉を選べるように。

昨年、友達に「not for me」が嫌いという話をした。その言葉を見ると、シャッターを下ろされてしまったような、作品への責任転嫁を見ているような気持ちになる。嫌さで言うと「エモい」を言う時みたいな気持ちになる。それでいてわたしだって感想に「わたしには合わなかった」などと「not for me」に似た言葉を差し込むことがあるので正直お前が言うな状態ではあるのだけれど、そこで終わらず冷静に言語化して否定という行為にもある程度の責任を持てるようになりたい。否定することと拒否することを同列に扱いたくない。そうやって、「好き」だけじゃなく「嫌い」「苦手」「合わない」「好きじゃない」も上手に表出して認め合えたら、それはとても居心地の良い場所になるんじゃないかと思う。

 

追伸 新年あけまして切れ痔が再発して超痛い。とてもつらい。お願いだから切れないでほしい。

親愛なるあなたたちへ

 

「そばかす」という映画のネタバレがあります。

 

夢だとわかる夢の中で映画館の大きいスクリーンに足を踏み入れたら、前の方の右寄りの席に知ってる後ろ姿が見えたから、隣に座って一緒に予告を観た。その後、夢が切り替わって、50人くらいで洋館のようなダークファンタジー的な場所でマーダーミステリーをする夢になった。iPadを使って謎を解くようになっていて、脳みそには黄色い部分と赤い部分と青い部分があって、みたいな内容だった。必死に謎を解こうとしていたら目が覚めた。

13:35だった。16:05の映画の約束があって、14:10くらいに家を出ないと間に合わない計算だった。すぐに「ちょっときわどい」と連絡を入れて高速でシャワーを浴びる。「はい言うと思った」というポプテピピックのスタンプがかえってくる。わたしの寝坊になれっこの友達に甘えて、いつもと同じように電車を一本遅らせて、へらへら笑いながら「ごめ〜ん」と謝り「いいのよ、あなたには期待してないから」と言われているはずだった。でもなぜだか今日は「映画、一緒にみたい」と強く思って、超急いで準備をして、家から駅までダッシュして、「間に合いました。」とラインを送った。後から聞いたら、絶対間に合わないと思ってのんびりしていたからわたしのラインを見てむしろ焦ったらしかった。わたしも支度を終えて電車に乗るまでは絶対に間に合わないと思っていたよ。

チケットの予約を任されて、電車の中で映画館のホームページをひらく。上映時刻が予定していた時間よりも40分遅い時間になっていて、それを見て今まで金曜日の上映スケジュールをもとに動いていたことに気付く。どのみち急がなくても大丈夫だったことに呆れながらも、慌ててまたラインをする。19時のごはんの予約にギリギリ間に合わないかもしれない、あなたに判断を任せる、と言われ、「早歩きしたくねえ」と思ったけど「映画みてえ」が勝ってチケットを予約した。同じスクリーンで観た別の映画のことを思い出しながら、その時と同じ列で席をとった。

駅で待ち合わせるのは構造上至難の技だったので、映画館で待ち合わせた。ポスターの写真を撮り、チケットを発券し、ロビーで映画が始まるのを待ち、パンフレットをふたりぶん買い、席についてりんごの飴を貰って舐めた。飴を舐めると口の中の天井のところが痛くなるのが苦手だったことを思い出した。小さくなった飴が天井にはりついた。チャイムがなって、予告が始まり、いつの間にか溶けてなくなっていた。

「そばかす」という映画を観た。映画としてどうこう、みたいなこと以前に、好きとか嫌いとか以前に、あまりにも自分と重なる部分が多すぎて、「この映画を、この人の隣で観るために、わたしはいつも映画を探していたのかもしれない」と思った。隣にいた友達は、まさにこの映画の真帆ちゃんみたいな存在だった。

友達とは、ずっと同じようにはいられないような社会構造のなかに、わたしたちは生きている。その中で「普通」の幸せに向かって進もうとしている友達のことを「あなたが幸せならわたしも幸せだ」と思える主人公と、そう思いたいけど素直に思えないわたしのこと。仕事を辞めようと決意して膝を立てる救命士のお父さんと、仕事を辞めたいのに辞められず文句たれているわたしのこと。「あなたがいるということが救いになる」と映画の後に別の道を歩んだ同僚と、「わかってくれる友達とずっと同じように遊んでいたい」と往生際の悪いわたしのこと。わたしの「こうありたい」「本当はこうでなくちゃいけない」が詰まっていた。辛かった。

終わった後、ご飯のお店に歩く時、靴擦れが痛むことに気づいた。それを伝える前に、「今日の靴、歩きやすい?靴擦れしてない?」って聞かれた。「歩きにくい、もう靴擦れしてる〜」と言ったら、「歩けなくなったら置いてくから頑張って来て」と言いながら歩調を合わせてくれた。お店はすごく遠くて、両の足首に赤い内出血がくっきりとはりついていた。

サラダと、肉と、デザートを食べながら、映画の話とか、2022年何をして遊んだかとか、買って良かったものとか、いろんなことを話した。早口で楽しそうにセーターの網目の話をしながら「いっぱい喋っちゃってごめんね」と言う姿をみて、映画の冒頭で宇宙戦争トムクルーズの話をする佳純の姿を思い出していた。「面白いからいいよ」と心の底から言えるのは、あなたのセーターの網目を好きな気持ちが本物だからなのだろうな、と思う。揺るぎない好きを持っている人は、たいへん魅力的だ。わたしもそうでありたい。そうでありたいから、そういう人たちに惹かれるのだろう。

会話が途切れたタイミングで、「いつ結婚するの」と聞こうとした。聞きたくないけど、この映画を観た今日、絶対聞かなきゃいけないと思った。そうしたら、「い」と言ったタイミングで相手がなにか言おうとして、「い」しか言えなかった。「なに?」って譲ってくれたけど、「ここで被っちゃったってことは、今日じゃないってことだ」と思って「なんでもないよ」と答えた。たぶん、なんでもなくないことがわかったのだろう、何度か「なに?」って聞いてくれたけど、言えなかった。本当はわかりきった事実を事実として知覚することがすごく怖かった。

その後もぽつりぽつりとどうでもいい話やどうでもよくない話をして、もう一度少しの沈黙が流れた時、「あなたはいつ結婚するの?」ということばがなんでもないように口をついて出てきたことに自分でも驚いた。「来年かな」と言うのが聞こえた。「そろそろ年貢おさめないと」「年貢for you」「年貢for you」「わたしはまだまだおさめられないなぁ」「そうねえ」そうねえ。そうなのよねえ。

寂しい、が一番にきたけど、それほどショックは受けなかった。そう思いたいだけかもしれないけれど、嬉しい気持ちもあった気がした。よくわからなかった。感情が動かないまま、またどうでもいい話をして、どうでもよくない話をして、カフェラテの写真を撮って、終電の時間を調べて、靴擦れにペンギンの古い絆創膏を貼って、トイレに行ったり会計をしたりして、店をあとにした。コートを忘れたままエレベーターに乗ろうとしたわたしに友達がびっくりしていた。わたしもびっくりした。

雨が降っていて、「コート濡れたくないから傘には入れないよ、やだよ、自分で買って」って言いながら、コンビニまで傘に入れてくれた。コンビニで傘を買って、開こうとしたらビニールが張り付いてうまく開けずに「えっ」と声が出た。「そういうとき「アエ」って言う人初めてみた」「どうしてみんなあなたの面白さを知らないんだろう、こんなに面白いのに」と言われた。それが全てだった。いつだってそういう言葉がわたしを救っていることにあなたは気づいていないのだろうなと思いながら、「アエなんて言ってないよ〜」と笑った。「言ってるよ〜」と友達も笑った。

傘を刺して、靴擦れが痛くないように爪先立ちで歩きながら、「これで良いお年をなの、本当に?」と言ったら、「良いお年をにしなくてもいいのでは?」と言われた。意味がわからなくてぽかんとしていたら、「年末あいてるの?」と聞かれた。本当にどこまで行ったってかなわない。相手の望みを察知することに長けた人間であることは知っているけれど、知らないふりをして「30あいてる、29まで仕事」と言った。携帯電話をみるそぶりを見せた後、「私も30あいてるみたい。なにしよっか」と言われた。今思えば、結婚の事実を寂しがるわたしのために時間を作ろうとしてくれたんじゃないかと思う。わたしは一度、30日のCDJの誘いを「予定がある」と断られていたから。

映画の終盤で佳純と真帆ちゃんが別れたみたいに改札の前で手を振って別れて、急に痛くなる靴擦れを気にしながらひとりでホームに辿り着き、人のまばらな電車に乗った。今日のことをツイートしながら、涙がマスクの中に入ってきて、できるだけ静かに鼻を啜る。思ったよりもちゃんと泣いてしまっている自分に驚きながらも、電車の中で泣いている人がいても誰もジロジロ見ようとせず、みんながスマホに目を落としている東京が好きだと思った。音を立てずに涙を出し切って、ポケットティッシュで鼻をかんだ。文藝天国と映画の主題歌を聴きながら、パンフレットを読みながら、最寄りに着く頃には日付がすっかり変わっていた。家に帰り、着替えてベッドに横たわり、パンフレットを読んでからブログを書き始めた。まだ公開するかは決めていない。わたしと友達の大切な話だから外に出しちゃいけない気もするし、大切だからこそわたしと友達がいなくなった後もインターネットのどこかに残っていてほしいって気もする。どちらにせよ、4時をまわる今夜更かしの倦怠感に襲われながらこれを書くことは絶対にわたしにとって必要なことだったのは間違いない。もう4時半になる。目元だけとっくに流れ落ちた化粧をビオレの化粧落としと想像よりもずっと冷たい水で洗い落とす。はやく寝なくちゃ明日も友達と遊ぶのだから。明日遊ぶ友達も、恋人との同棲をきっかけに遊ぶ頻度が減って、同じようにとても寂しく思ったのはもうかなり昔の話。もうすぐその恋人と結婚するらしい。みんな結婚するぜ、めでてえな、おめでとう。結婚しても、今までみたいに会えなくなっても、ずっとずっと、友達でいような。

終わらせないようにすれば、終わらないでしょ

 

今日は朝の通勤電車で音を意識して過ごした。右隣の人のお腹が鳴った。左隣の女子高生のイヤホンからガンガン音漏れしていた。遠くから三回連続でくしゃみの音がした。電車がレールを辿る音が響いて、吊り革に掴まって立つ人の服を、光が窓の形に切り取っていた。誰も喋らなかったけど、言葉じゃないものも耳を傾ければいろんなことを喋っていた。録音アプリでこっそり環境音を録った。帰り道で来た道の音を聴いて歩こう。

 

環境音を意識するようになったのは、「ほとぼりメルトサウンズ」という、新人監督の東かほりさんが撮った映画作品を観てからだ。年齢も出自も違う4人がなんとなく集まって環境音を集めて過ごした冬を撮ったもので、始まった時からじんわりと終わりを予感させる空気感が寂しくもあり、愛しくもある。家族でも友達でもない、最初は知り合いですらなかった、でも、間違いなく大切で大好きな時間。

下北沢K2シネマでこの映画を観たわたしは、なぜだかわからないけれど、ずっと泣いていた。終わらないでほしいものがたくさんあって、その大半は既に終わってしまっていて、終わった後の社会の中で「ここはわたしの場所ではない」と思いながら少しでも正しくなろうと生きている。その中で再びみつけたモラトリアムも、わたしのせいで、或いはそれぞれの人生のために、もう終わってしまった。受け入れられなくて、その尻尾をまた掴もうとして、前が向けなくて、いまだに過ぎゆく時間に引き摺られている。毎週のように囲んだ鍋のこと。一緒に包んだ餃子のこと。明日になってほしくなくて、寝たくなかった夜のこと。きっとそういうことがあるから、重なるものが多いこの映画が大好きになってしまったのだと思う。一緒にいた時間は、たとえ短期間でも、終わってしまっても、地面に埋めたいつかの音のようにどこかに残っている。思い出さなくても、忘れてしまっても、なにもなくても、絶対どこかに残っている。

正しい生き方とか、普通にならなきゃいけないという社会の圧とか、そういうものに押し潰されて色んなものが見えなくなっちゃった人に、この映画を薦めたい。終わってしまった大切なものがある人にも観てほしい。むしろわたしがまた観たい。

 

初めて東さんの名前を意識したのは「街の上で」のエンドロールで、その後も今泉力哉監督作品のエンドロールで何回か名前を見かけたことで東さんの存在をなんとなく知り、その東さんが監督した映画があると、フィルマークスで偶然知った。当時はK2シネマで上映していて、なぜか「今みなきゃ」って強く思って、嵐の日に電車で2時間かけて下北沢まで観に行った。たまたま舞台挨拶の回で、上映後に東監督とメインキャストの宇乃うめのさんとお話することもできて、パンフレットにサインも頂いた。サインは、サインそのものじゃなくて、サインを書いてもらいながら話したあの時間を思い出せるから嬉しくて大切なのだと思った。

 

ほとぼりメルトサウンズ、ミニシアターで1週間限定とかでやっていて、全国をまわって、わたしの地元の自慢の映画館でも上映・舞台挨拶をしていて、嬉しくて普段連絡をとらない両親に薦めた。今週東京に帰ってきて、吉祥寺で上映する。音の映画なので、行ける人はぜひ映画館で観てほしいなと思う。超いいよ。

 

 

不純な自分を騙してごめんな

 

先週末、同僚から「ブラックパンサーみにいこうよ」とラインがきた。「水曜どう」って送ったら「そうしよう」ってかえってきた。映画行きたいね〜と普段から言い合っているけれどなんだかんだ日程が合わずわたしが勝手に観に行ってしまうので、貞子DXぶりのふたり映画の約束だった。そこから何回か寝て起きてを繰り返して、楽しみにしていた今日がやってきた。お互い仕事を定時で終わらせて、わたしの車に乗って、まずはお腹を満たしに向かう。せっかくだしちょっと奮発しようか〜とうなぎを食べに行った。久しぶりのうなぎは超おいしかった。

そこから映画館に向かおうとしたら、「時間あるし、普段使わない道で遠回りしてこうよ」と言われた。素敵な申し出にわくわくしながら言われるがまま運転して、職場を通り過ぎて「車通っていいのか?」ってくらいの対向車来たら終わるかんじの田んぼの間の道にのろのろ侵入していった。街灯なんかひとつもなくて、「これ絶対くねくねいるよ!」とか言いながら運転してたら「車の電気消したら真っ暗じゃない」って言うから、その場に車を停めてエンジンを消してみた。まじで真っ暗で本当にくねくねを目撃しそうだったのですぐにエンジンをつけようとしたら、エンジンがつかなかった。3回くらいやり直すうちに(終わった…JAFだ…)と変に冷静になっていたらシフトレバーがドライブになっていることに気づいて、パーキングに戻したら普通にエンジンがついた。「ホラー映画みたいだったね」って笑われた。本当に映画だったらあの後「おかしいな〜?」って外に出た瞬間に田んぼに引き摺り込まれたり、車に戻ってエンジンをつけたらバックミラーになにかがうつってたりするんだろうな。ホラー映画の登場人物たちがトラブルに巻き込まれて無防備なまま死んでいくの、もう少し警戒せえよと思っていたけれど、実際にエンジンがつかなくなった時わたしはおばけではなくJAFのことを考えていたのでわたしも警戒しないままやられていくんだろうなと思った。その後「このバックミラー怖いねえ」と言われて、気づいてしまった。わたしの車のバックミラーはただの鏡じゃなくてカメラタイプのやつなので、ほん怖の投稿映像みたいな画質のかなり悪い暗闇が映っていたのだ。怖さって気づくか気づかないか本当に紙一重のところにあって、気づかなければなんともないのに、一度怖いと気づいてしまったら思い出すたびに怖くなってしまう。例えばカーテンの隙間とか、電源の落ちたテレビにうつる部屋とか、そういう何気ないものが「なにかをうつしかねないもの」に変貌する。

そんなこんなで細い道を側溝に落ちないようにゆっくりゆっくり走って、ナビだと行き止まりになっている道の手前の交差点に来た。「この道でバックしたら田んぼ落ちる」と言って曲がろうとしたら、「バックしなきゃになったら運転するから」と説得され(といってもわたしもけっこう乗り気で)その道をまっすぐ進んだ。そうしたら途中で道がぐいんと右に曲がっていて、少し高い場所にある道に出た。左は川だった。ひとりだったら絶対進めなかった道を進んできて、知らない場所を探検して、いろんな怖さを混ぜた興奮もあって、ガードレール越しの細くて黒い川がきらきら光ってみえた。ドライブってこんなに楽しいんだと思った。あの川を忘れたくなくて、今日はブログを書こうと思った。

そこからなんとなくで道を進んでたら大通りに出て、知ってる道に来て、映画館に到着した。ロビーのソファでぼけっとしながら頭上のモニターの予告の音声を聞いて、たまにひとことふたこと喋る、みたいなのを20分くらいやって、漸く入場時間になった。

いちばん奥の狭いスクリーンで、お客さんはわたしたちともうひとりしかいなかった。いちばん手前の大きいスクリーンの「すずめの戸締まり」と同日公開なのにえらい格差だなと思った。

映画はとても長く感じた。スプラトゥーンで寝不足だったのと、うなぎでおなかがいっぱいだったのもあって、中盤かなりうとうとして何回か寝てしまった。映画、ちゃんと観たかったと思う反面、好きな食べ物でお腹がいっぱいになって好きな場所で好きな友達の隣でうとうとできるなんて、最高かもしれないと思った。映画をちゃんと観られなかったこと、車で冒険したこと、今後この映画を観るたびに思い出すんだろうな。うとうとしながら、アントマンワスプもだいたい同じ状況で寝てしまったことを思い出したりしていた。その時は爆睡だったな。

帰ってから映画の感想をFilmarksにしたためて、下書きのまま投稿できないでいる。簡単に言葉にするには映画に背負わせているものが大きすぎるし、数秒間とはいえ何度も寝てしまっているため「寝たやつが一丁前にこんなこと言っていいのか」という気持ちもある。映画の感想ってとても難しい。いいところをたくさん見つけて残したいと思う反面、合わなかったところや納得いかない部分をなかったことにしてしまうのも違う気がする。だからといってそういうことをしっかり書くと、なんかいやな感じのレビューになってしまう。感想を感想として、そこにないはずだった悪意や貶めを感じさせずに書けるようになりたい。レビューがうまいひとの批評や指摘は、読んでも嫌な気持ちにはならないから。

わたしは臆病だから、一緒に観た人への忖度もレビューにあらわれてしまうことがある。だれかが好きと言う映画に低評価をつけたり自分と合わなかった部分の指摘をするのは、そんなことなくてもその人の思い出を貶めているような気がしてしまう。だれかと観る映画が、わたしにとっては思い出だからかもしれない。そんなこと言ったらなんにも書けなくなっちゃうし、忖度にまみれた感想なんてなんの面白みもない。だから、臆することなく真っ直ぐに「好きじゃない」「よくない」を言える人が羨ましいし、そうでありたいと思う。

そんなこと考えながら同僚がFilmarksに投稿したレビューを読んだら、わたしと同じようなことを考えていてとても安心した。違うからこそ面白い、もあるけど、同じだから安心する、も確実にわたしの中にある。わたしにとってはどっちも必要でどっちも大切だから、わたしも心からの「好き」「好きじゃない」をちゃんとレビューに残したいと思った。